山口県の金子みすゞ記念館に行ってきました。
金子みすゞの名前は知っていました。詩人だということも。でもそれ以外は何も知りませんでした。
今回の訪問で彼女の人生に触れることが出来ましたので、後学のためにまとめようと思います。
それでは参りましょう。
金子みすゞ記念館への場所
最寄りのICは中国自動車の美弥ICですが、そこから一般道を30km以上走ることになります。
美弥インターの信号を左折します。国道435号線を道なりに進み国行の交差点を右折し国道316号線へ。あとは細かい道なのでナビに頼った方がいいです。
JR山陰本線の仙崎駅から徒歩5分なので電車がおすすめです。
金子みすゞ記念館について
金子みすゞの実家は金子文英堂という書店でした。
記念館は実家跡に復元された金子文英堂の奥にあり、金子みすゞに関する色々が展示されています。
休館日 12月29日から1月1日
入館料 一般:350円 小中高生:150円
詳細は→金子みすゞ記念館ホームページ
金子みすゞについて
金子みすゞは1903年(明治36年)4月11日に山口県大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)で生まれました。本名は『金子テル』。兄と弟がいます。
父親は庄之助といい、妻(ミチ)の妹(フジ)の嫁ぎ先である上山家が経営している上山文英堂の清国の営口で支店長をしていました。しかし1906年(明治39年)に突然病死してしまいます。
祖母と母は家計を支えるため上山文英堂の世話を受け金子文英堂を開業。そして弟の正祐を上山家に養子を出します。
幼い頃から本に囲まれる生活をしていたんですね。
1918年(大正7年)、みすゞ15歳のときに上山家に嫁いだ叔母のフジが亡くなります。
そして翌年。母のミチが上山文英堂の主人・松蔵と再婚します。
この再婚によってみすゞから見て弟の正祐は実弟でもあり義弟でもある不思議な関係になります。
みすゞは20歳の頃から童謡詩を書き、作品を雑誌に投稿し始めます。
それが西條八十の目に留まり称賛され、童謡詩人として一躍有名になります。
1926年(大正15年)、23歳のとき。義理の父・上山松蔵の進めで上山文英堂の番頭格・宮本啓喜と結婚し一女をもうけます。
世間に詩が認められ、結婚、出産。
明るい未来が想像出来そうですが…。そうはいきませんでした。
23歳で結婚。そして、彼女は26歳で亡くなります。
何が起こったのか?
夫の宮本啓喜は上山文英堂の番頭をしていたくらいですから主人の上山松蔵に期待されていたのでしょう。
松蔵から見てみすゞは義理の娘に当たります。優秀な人間は親戚にしてしまった方が何かとやり易いですし、宮本啓喜からしてみれば社長の親戚になれれば出世間違いなしと思ったに違いありません。二人の結婚は当時では珍しくない政略結婚に近いものだったのでしょう。
結婚に猛烈に反対した人物がいます。それはみすゞの弟・正祐です。
正祐と啓喜は相容れない関係でした。また啓喜が放蕩三昧な男と知っていたためみすゞには相応しくないと思っていたようです。
夫・啓喜は正祐とうまくいかなかったことが原因で上山松蔵から見限られ上山文英堂を解雇されてしまいます。
啓喜は自暴自棄になり女遊びに没頭します。また、みすゞの詩作活動が気に入らなかったため詩の投稿や仲間との文通を禁じています。
不幸は重なるものです。トドメの一撃です…。啓喜から淋病を移されてしまいます。
1930年(昭和5年)2月に離婚します。みすゞは娘の親権を要求するも認められず啓喜に取られてしまいます。
そして、同年3月。金子みすゞは服毒自殺でこの世を去ります。
私は記念館に行っただけで彼女についての伝記は読んでいません。
この記事も記念館で知ったこと及びインターネットで調べてまとめたものです。参照にしたサイトは以下。
金子みすゞは遺書を残して自殺しています。
詳しくは載せませんが『絶対に娘を夫に渡したくない。』という感情を思いっ切りぶつけています。
みすゞの願いは叶い娘は夫のところには行かず、みすゞの母・ミチの元で育てられます。
終わりに
夫に移された病気も自殺の方向へ傾かせる一つの要因になったのでしょう。
身体も心も憔悴しきっている状況で自分が産んだ子供にもう会えないかもしれないと考えたら死にたくもなると思います。『せめて…。信頼できる人の元で育って欲しい。』彼女にとって自殺が最後の手段だったのでしょう。
現在なら裁判で親権を争えますが、昔は男性の立場が強かったため父親の親権要求がまず通っていたようです。
以上が金子みすゞについてでした。
今度、伝記を買って読んでみよう。そうしたらもう少し突っ込んだ内容の記事が書けるはず。そういえば、詩について何も触れていませんね…。私には詩の良し悪しがわからないのです。
おしまい!