湯築城跡は伊予の豪族・河野氏の居城だった場所。
現在、城跡は道後公園として整備され、地元の方々や道後温泉に来た旅行者たちの憩いの場となっています。
城の遺構は土塁や堀などが現存し、武家屋敷などが再現されています。
それでは、その歴史を振り返っていきましょう。
湯築城へのアクセス
松山ICから約20分ほどで着きます。
道後温泉の青看板や案内板に従えばそれほど迷わず行けるでしょう。
電車なら予讃線のJR松山駅から路面電車に乗り換えて道後公園駅を下りれば目の前が湯築城跡です。
湯築城と河野氏の歴史
14世紀前半(南北朝時代)~16世紀末(戦国時代)の約250年間、伊予の豪族・河野氏が湯築城を居城としました。
河野氏は越智氏を祖とする地方豪族で善応寺付近にあった河野郷から勢力を拡げたと伝わります。
源平合戦と河野氏
平安時代末期、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝が挙兵すると河野通清・通信父子はこれに従い平家の軍と争いました。
同十六日、伊予国より飛脚到来す。去年の冬頃より河野四郎通清をはじめとして、四国の者どもみな平家に背いて源氏に同心の間、備後国の住人、額入道西寂、平家に志深かりければ、伊予国へおし渡り、道前、道後の境、高直城にて、河野四郎通清を討ち候ひぬ。
平家物語 巻第六 飛脚到来より
源平合戦で源氏の味方に付いた河野通清は、平家に思い入れがあった備後国の額入道西寂に伊予高直城(高縄城)で討ち取られたとあります。
その後、西寂は四国の反乱を鎮め、備後国に戻り勝利の酒盛りを行います。
通清の子、通信はへべれけになった西寂の軍に決死の奇襲を仕掛け西寂を生け捕りに。
まづ西寂を生捕にして、伊予国へおし渡り、父が討たれたる高直城へ提げ持て行き、鋸で首を切つたりとも聞こえけり、また、磔にしたりとも聞こえけり。
平家物語 巻第六 飛脚到来より
ひぇぇ…。
のこぎり挽きですか。
怖ろしや…。
父の仇を討ち取った通信は名声を得、四国の武者たちは彼に従属しました。
又、伊予国の住人、河野四郎通信、百五十艘の兵船に乗り連れて、漕ぎ来り、源氏と一つになりにけり。
平家物語 巻第十一 鶏合・壇浦合戦より
通信は源義経に従い壇ノ浦の戦い(1185年)で活躍。
建仁三年四月大六日甲辰 伊豫國御家人河野四郎通信 自幕下將軍御時以降 殊抽奉公節之間 不懸當國守護人佐々木三郎兵衛尉盛綱法師奉行 別可致勤厚 兼又如舊可相從國中近親并郎從之由 給御教書 平民部丞盛時奉行之 通信年來有鎌倉之處 適賜身之暇 明日可歸國之間 召御前 給此御教書云々
吾妻鏡 第十七巻より
『建仁3年(1203年)4月、河野通信が源頼朝に長年仕えて来たので、伊予国守護の佐々木盛綱に従わないで、別に忠義を以て仕えなさい。むかしの如く親戚や家臣を支配するように。』という命令書を受け取っています。
鎌倉幕府から河野氏が優遇されていたことがわかります。
承久の乱と河野氏
1221年の承久の乱(鎌倉幕府vs後鳥羽上皇)で事態が一変します。
河野通信は上皇の味方に付きますが、この戦いは鎌倉幕府の勝利で終わります。
追撃する幕府軍を高縄城に籠って戦うも降伏し捕虜になってしまいました。
そして陸奥国江刺に流され、配流先で亡くなります。
その後、河野氏はどうなったのか?
通信の息子・河野通久が幕府に従ったためどうにか存続しています。
しかし家中の多くは通信に付随したため人材不足、領地切取の憂き目にあい河野氏の勢力は大きく減退してしまいました。
元寇と河野氏
河野通久の孫・通有の代にモンゴル軍が日本に攻め寄せます。いわゆる元寇です。
この戦いは1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)の二度に亘って行われました。
河野通有は叔父の通時と共に参戦しています。
弘安の役では石築地(防御のための石塁)を背に海岸沿いに軍を配置、背水の陣で挑みました。
福岡の志賀島の戦いで大いに活躍し旧領+αを獲得。
肥前ノ國神崎庄内小崎郷 同加納下東郷 後日ニ〇領ス、同庄餘残同荒野肥後國下久〇村〇上 三百町之ヲ賜ル 同當國山崎庄〇〇領也
予章記より
〇は読めなかった字です。
『肥前(佐賀県)の神崎庄の中にある小崎郷。加納下東郷。後日、拝領した。肥後(熊本県)の下久具村、三百町を賜った。伊予(愛媛県)の山崎庄を拝領した。』
わからないところがあるので訳はかなり適当です。
南北朝時代の河野氏
河野通有の子・通盛の頃に本拠を湯築城へ移しました。
湯築城がある道後は古くから湯治場として知られ人の往来が多く経済的、文化的に重要な場所でした。
新田義貞や足利尊氏の活躍により鎌倉幕府が滅亡して終わった元弘の乱で通盛は幕府に手を貸しています。
結果、敗将となり領地を没収され出家しています。
しかし一族の殆どは朝廷の味方に付いたため滅亡は回避しました。
建武の乱(延元の乱)で足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと通盛は尊氏に呼応。
経過の詳細は割愛しますが、尊氏の室町幕府政権で河野氏は伊予守護に任命されています。
その後、河野氏は四国にやってきた細川頼之と小競り合いを始めます。
河野通盛は子の通朝に家督を譲ります。
しかし細川氏の伊予侵攻で通朝が戦死、更に通盛も病気で死亡。
この時に湯築城は細川頼之の手に渡っているようです。
跡を継いだ河野通堯は伊予から逃げ落ちますが、南朝の助力を得て伊予の奪還に成功しました。ところが父と同じく細川頼之の奇襲にあい戦死してしまいます。
そして息子の通義は細川頼之と和解。
対外問題はある程度治まりを見せたものの今度は内輪揉めが始まります。
河野氏は一向に落ち着くことなく徐々に力を落としてゆきました。
戦国時代の河野氏
戦国時代、河野氏は『中国地方の覇王・大内氏』『謀神・元就率いる毛利氏』『ドン・フランシスコこと大友宗麟』などと与しながら群雄割拠のなかをボロボロになりながらも進みました。
また村上海軍で有名な来島村上氏・通康を重臣として迎え入れ家臣団を強化しています。(これが原因でまた内訌が発生する)
河野氏の滅亡
河野通宣の代になると完全に勢力は衰え周囲の強大名に振り回されています。
土佐国(高知県)の長宗我部元親による伊予侵攻で降伏したかと思うと、全国統一を目指す豊臣秀吉が四国の平定に乗り出してきて…。
河野氏最後の当主は河野通直です。
彼は豊臣秀吉に従った小早川隆景(毛利氏一族)に湯築城を明け渡し庇護されます。
もともと河野氏は毛利氏とは良い関係(といっても従属的だけれど)を保っていたため最悪な結末にならず済みました。
1587年(天正15)、福島正則が入城したものの居城を移したため、湯築城は廃城となります。
1600年の関ヶ原の戦いで河野氏の遺臣たちが再興を目指し立ち上がりますが、毛利氏(西軍)に従い戦ったため返り咲くことは出来ませんでした。
終わりに
湯築城跡の展望台から眺める伊予松山城。
松山観光の目玉と言ったら松山城でしょう。
なんせ現存12天守/重要文化財の一つですからね。
でも、歴史深いのは湯築城だと思います。愛媛県の代表となる豪族が何百年もの間拠点にした城なのですから。
地域の風土が染み込んだとっても貴重な城跡なのです。
おしまい!