大分県の戦国大名である大友氏について調べているとよく出てくる吉弘氏。
この家系は大友氏の分家で初めは国東半島の武蔵郷、後に都甲荘(豊後高田市)に本拠を置きました。
非常に優秀な一族で戦国時代末期に石垣原の戦いで大友氏が滅亡するまでこれを支えています。
ここでは現在の吉弘城の様子と吉弘氏出身の歴史著名人を紹介したいと思います。
それでは参りましょう!
吉弘城へのアクセス
場所はこの辺りです。
大分空港から国道213号線を北へ。(国東市役所方面)
みなとの交差点を左折し県道55線を道なりに進むと右側に楽庭八幡宮が見えてきます。
そこから3番目の小路を左折すると着きます。
なかなかわかりにくい場所にあるので地図を参照してください!
吉弘城跡
吉弘城は西ヶ谷の城山頂上に築かれた山城です。
1334年(建武1)に吉弘氏初代の正堅によって築城されたと伝わります。
遺構は石畳や土塁、竪堀、石垣などが残っているようです。
頂上にある石碑。
この先の藪の中を突き進むと遺構らしきものがあります。
築城当時に積まれた石垣なのか?
それとも近年積まれたものなのかは分からない。
石畳の通路のように見えなくもない。ただ台風などで石が流れて来ただけなのかもしれない。
少し開けた場所もあります。
頂上の案内板に館跡とあったのでもしかしたらこの辺りに館が建っていたのかもしれない。ってな感じで全く整備されていないのでどれが遺構なのか素人にはわからないです。
次は吉弘氏で特に有名な武将を紹介します。
吉弘鑑理(あきまさ)について
吉弘鑑理は1519年(永正16)から1571年(元亀2)を生きた戦国武将で、豊後国の大大名・大友宗麟の全盛期に活躍しています。
彼は臼杵鑑速や吉岡長増らと合わせて豊後三老と呼ばれる程の人物でした。
病死する寸前まで戦に明け暮れた猛将ですが、軍を率いる能力だけではなく政治の能力も高かったようです。
また申次職(取り次ぎ役)を務めるなど大友宗麟から絶大な信頼を得ていました。
吉弘鎮理(高橋紹運)について
吉弘鎮理は鑑理の次男で1548年(天文17)から1586年(天正14)を生きました。
後に高橋紹運と名乗ります。後の柳川藩の藩祖・立花宗茂の実父です。
立花宗茂は高橋紹運の長男でしたが、立花道雪の切なお願いにより立花家の養子に入りました。道雪の娘、誾千代との夫婦生活はあまりうまく行っていなかったらしいです。
高橋紹運を特に有名にした事柄といえば岩屋城の戦いでしょう。この戦いで主家に対する義、そして大切な息子たち生かせるべく奮闘、戦死しました。
吉弘統幸について
吉弘統幸は鑑理の孫で、1563年(永禄6)に生まれ1600年(慶長5)に亡くなりました。
父の鎮信が1578年(天正6)の耳川の合戦(大友vs島津)で戦死すると吉弘氏の家督を継ぎ大友氏を支えました。大友義統(宗麟の息子)が文禄の役で失態を起こし大友氏が改易になると黒田氏、立花氏に身を寄せました。
1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いで義統は石田三成らに『我々に味方して勝ったら豊後国あげるよ!』とそそのかされて(?)西軍に付きます。統幸は義統の息子である義乗が徳川家康に付いていたので東軍として戦うべきと考え義乗の下へ向かおうとします。
その道中で義統と出会い『東軍に付くべきです。』と説得しますが聞く耳持たず。仕方なく義統と行動し西軍として戦うことになってしまいました。そして現在の別府で黒田官兵衛と細川忠興の軍とぶつかり統幸は敢闘するも討ち死にしてしまいます。
この戦いを石垣原の戦いといいます。
終わりに
上記3名が主に対して懸命に尽くしたため吉弘氏は『義の将』と名高い家系と云われるようになりました。
私は全く義理堅い人間では無いので、少し憧れを抱きます。
おしまい!