竹田城は兵庫県朝来市にある標高約350mの古城山山頂に築かれた山城です。
古城山が伏せた虎に似た外観をしていることから虎臥城とも呼ばれたりします。
現地の案内板によると↓
竹田城は嘉吉年間(一四四一~四三)に、但馬守護の山名持豊(宗全)が有力家臣のひとりである太田垣氏に築かせたと伝わる城である。
竹田城 案内板より
江戸時代後期に書された『和田上道氏日記』では嘉吉年間に安井ノ城が築かれたとあります。
安井ノ城は太田垣氏の竹田城のことを指します。
以上のように竹田城の始まりについては口碑が残るのみで不明な点が多いのです。
太田垣氏は大大名の山名氏の四天王として数えられ、織田信長が台頭する時代まで竹田城を居城としました。
天正五 一五七七
羽柴秀吉、播磨を平定したのち、小一郎秀長をもって但馬を侵攻する
天正六 一五七八
秀吉、再び小一郎秀長を竹田城に入れる(『信長公記)』)
小一郎秀長、秀吉の三木城攻めに加わる
天正八 一五八〇
秀吉、但馬を攻撃する(この時点で、太田垣の竹田城は終わる)
桑山修理太夫重晴、竹田城主となる。所領一万石(『藩翰譜』)
竹田城 案内板より
信長公記に以下のように書かれています。
十月廿三日、羽柴筑前守秀吉、播州に至つて出陣。
十月廿八日、播磨国中、夜を日に継いで懸けまはり、悉く人質執固め、霜月十日比には播磨表隙明申すべき旨、注進申上げられ候処、早々帰国仕るべきの趣、神妙に思食させられ候由、忝くも御朱印を以て仰出され候。然りといへども、今の分にても差たる働きこれなしと、羽柴筑前守秀吉存知られ、直に但馬国へ相働き、先山口岩洲の城攻落し、此競に小田垣楯籠る竹田へ取懸け、是又退散、則、普請申付け、木下小一郎城代として入置かれ候キ。
信長公記 巻十 中将信忠御位の事より
10月28日、播磨国を昼夜駆けまわり、国中の有力者の人質を執り固めた。
11月10日頃には播磨の戦いは終わると信長公に申し上げたところ、秀吉の働きに感心したため、早々の帰国をしたらよいと御朱印をもって伝えて来た。
とは雖も、秀吉は『まだ大した働きはしていません』とすぐに但馬国へ向かい、播磨国山口の岩洲城を落とし、小田垣が立て籠もる竹田城攻略に取り掛かり、これを退散され、普請を申し付け、木下小一郎(羽柴秀長)を城代として置いた。
秀吉のこういう『+α』をやり遂げる熱心さに信長は惹かれたのでしょう。
信長公記では太田垣が小田垣になっていますね。
其子修理太夫重晴、入道の後宗榮と號し、其後治部卿法印には成されしなり、
宗榮初め豊臣秀吉、未だ江州長濱の城に、おはせしより、其家に伺候して、秀吉と柴田と戰はれし時に、當國の要害を守る、秀吉世を知り給ひて、但馬國竹田の城を賜ひ、(二万石)
其後舎弟大納言秀長に附られて、所々の戰の高名して、紀伊國和歌山の城を領す、(三万石法印始て此城を築て住せしと云)
文祿四年、関白秀次の事ありし時、伏見の城を守りし事に由りて、秀吉新恩の地を加へ賜う、(一万石其地は泉州に在と云)
嫡子九郎五郎一重は、生年廿二歳にして、竹田の城に死す、法印致仕の後、嫡孫なれば、一重が子修理亮一晴に、所領の地を譲り、(但馬竹田幷紀伊國の地を合わせて二万石と云 一説に一万六千石とも云)
次男伊賀守直晴に、所領を分つ、(一万石と云 一説に一万六千石とも云)
(中略)
同き十一年十月朔日、宗榮法印八十歳にして卒す
藩翰譜 第九 上 桑山より
太田垣氏の後に竹田城に入った人物は羽柴秀吉の家臣・桑山重晴です。
桑山氏は関ヶ原合戦、大坂の陣共に徳川家康の味方をしたため谷川藩・御所藩を治める大名になりましたが、跡継ぎが無かったため領地を没収されてしまいました。
天正十三 一五八五
重晴、和歌山城代として移封される。赤松広秀、竹田城主となる
所領二万石(『廃絶録)』慶長五 一六〇〇
関ヶ原の役。広秀、西軍に属し丹後田辺城を攻める
西軍敗戦後、鳥取城攻めに加わるが、大火の責任を問われ
鳥取・真教寺で自刃する。竹田城、廃城となる竹田城 案内板より
桑山重晴が和歌山に移動。
その後、赤松広秀が竹田城に入城しています。
広秀は播磨の名門・赤松氏の出です。
廃絶録には以下のように記されています。
二萬二千石 但馬竹田 赤松氏 齋村(藤イ)左兵衛尉廣英 十月廿八日但馬國にて自殺年三十九
廃絶録より
廃城後、1615年に生野代官所の支配下に。
昭和に入り国史跡に指定され、戦後に石垣の復元工事が行われています。
以上が竹田城の歴史でした。
終わりに
竹田城の看板より引用
竹田城は『天空の城』や『日本のマチュピチュ』などの異名を持ちます。
条件が合えば写真のような風景を眺めることが出来ます。
竹田城跡の公式HPに雲海について案内がありますので、竹田城に行かれる方は御参考にどうぞ↓
おしまい!