群馬県伊勢崎市にある田島弥平旧宅は世界遺産に登録されている歴史的建築物です。
田島弥平とは何をした人物なのか?
そして彼の旧宅が何故、世界遺産に認められたのか?
紹介致しましょう!
田島弥平旧宅へのアクセス&入場料
関越自動車道の本庄児玉I.Cを下り伊勢崎方面へ向かいます。
道なりに10分ほど進み沼和田南の信号を斜め左に入ります。
そして沼和田の信号を右折して道なりに。
約6分くらい進むと名無しの信号があるので左折。
(手前に青看板がある。境方面へ曲がる。)
島村渡船の看板を直進すると島村蚕のふるさと公園が左手にあります。そこに駐車して徒歩で田島弥平旧宅へ向かいましょう。
田島弥平旧宅とは?
田島弥平旧宅は世界遺産『富岡製糸場と絹産業遺産群』のうちの一つです。
群馬県では古くから養蚕が行われていました。
始めは自給生産に留まっていましたが、江戸時代になると幕府が養蚕業を奨励したため生糸の需要が高まり、多くの農民が養蚕業へ関心を持ち始めます。
次第に養蚕技術が高まっていき上質な絹が作られるようになりました。
1859年(江戸時代末期)に横浜が開国。
ヨーロッパではカイコに微粒子病が広まり西洋養蚕界は壊滅的な被害にあいます。
そのため日本の絹や生糸が多く輸出されることになります。
田島弥平はこの時代に養蚕を営む家の長男として生を受けました。
田島弥平とは?
田島弥平は養蚕技術の向上に大きく貢献した人物です。
彼は清涼育を採用し特に換気を重要視しました。
上の写真の屋根にある出っ張りをヤグラと呼びます。ヤグラや天井を高くすることによって空気の循環を生みカイコにとって良い環境を作り上げました。
これを島村式蚕室と呼びます。
明治時代に入り新政府は富国強兵の資金源として養蚕業に力を入れ始めました。
養蚕の素晴らしさを民衆に伝えるため皇室で養蚕が始まります。
このとき宮中の役人に養蚕について教えたのが田島弥平でした。
現在でも皇居内にある紅葉山御養蚕所は弥平の島村式蚕室が採用されています。
googleで調べると写真が出てきますので見てください。田島弥平旧宅の屋根にあるヤグラと似たものがあります。
田島弥平の島村式蚕室(清涼育)は高山社を起こした高山長五郎の清温育に引き継がれていきます。
『世界遺産・富岡製糸場と絹産業遺産群』は富岡製糸場、田島弥平旧宅、高山社、荒船風穴の四つです。
田島弥平旧宅や高山社は『品質の高い生糸を安定して大量生産することに成功』し『高級品だった絹製品を大衆化』させ『世界の絹産業の発展と消費』をもたらした功績から世界遺産に指定されたのです。
終わりに
私が子供だった頃、近所の畑は桑で埋め尽くされていました。甘酸っぱいどどめ(桑の実)を頬張り登校した記憶が蘇ります。
カイコを飼育している友達の家によく遊びに行ったものです。
真っ白でぷにぷにしたカイコはかわいいけどちょっと気持ち悪い。
あれだけあった桑畑はもう殆ど無くなってしまいました。
おしまい!