九州地方の覇権を狙う大友氏と島津氏は、戦国時代後期になると各地で激しい合戦を繰り広げました。
豊後国(大分)の大名である大友宗麟は大友氏の最盛期を築いた人物でもあり、没落のきっかけを作った人物でもあります。
大友氏が衰退していくなか、勢力を伸ばし薩摩国(鹿児島)から北上する島津氏。
大友領内に侵攻した島津氏は豊後の南端に位置する岡城を真っ先に狙い、周りの支城から落としていきます。
さて岡城はどうなったのか?
岡城跡へのアクセス
電車ならJR豊肥本線の豊後竹田駅で下車。
その後、タクシーなら5分程度、徒歩なら30分程かかります。
車なら国道57号線に入り天神交差点を熊本方面からなら右折、大分市方面からなら左折します。
しばらく進んだら『岡城址入口』の信号があります。
入場料は高校生以上300円、小、中学生は150円です。
岡城の築城者、緒方惟栄について
岡城は1185年(文治元年)に緒方惟栄/維義(これよし)が築いたと伝わります。
惟栄は豊後武士団の棟梁で大野郡の緒方荘を支配していました。
平家物語8巻にその名前があるので引用します。
かの維義は恐ろしき者の末なりけり。たとへば、豊後国の片山里に昔、女ありけり。ある人の一人娘、夫もなかりけるがもとへ、母にも知らせず、男よなよな通ふ程に、歳月も重なる程に、身もただならずなりぬ。母これを怪しむで…
平家物語8巻 緒環より抜粋
引用文の続きの要約↓
この大蛇は日向国(宮崎)で崇められている高知尾明神の御神体で、このような先祖を持つ維義には多くの人間が付き従ったとされています。
源頼朝が義経を抹殺するため追っていたとき緒方惟栄は義経を庇います。
その際に岡城を築城したという伝説が残っています。
緒方惟栄は義経を助けたため頼朝の怒りを買い上野国沼田荘に流刑。(沼田の血が流れている私としてはなんとも興味深い歴史です。)
その後の緒方惟栄については不詳だそうです。
南北朝時代から戦国時代の岡城
南北朝時代に入ると大友氏の分家である志賀氏が入城します。
時代が飛んで戦国時代へ。
1586年、序文でお伝えした豊薩戦争(大友vs島津)が勃発し、鬼島津こと島津義弘が先達て内応した者らを先導に肥後路から豊後へ侵攻。
島津軍は攻めやすい支城を調略や力攻めで次々に落としていきます。
岡城は稲葉川と白滝川が合流する間の台地に築かれた天然要塞のため攻めにくい城でしたが、守り手の志賀親次は20歳前後でまだ若い武将だった上に親次の父である親度やその他親族がこぞって大友氏から離反したため、島津義弘は岡城を簡単に落とせるだろうと考えたかもしれません。
しかしながら志賀親次は少数の兵で大軍をよく凌ぎ島津軍を苦戦させます。
主君の大友宗麟は自家だけで島津氏に敵わないと理解していたため大阪の豊臣秀吉に助けを求めていました。
志賀親次もきっとこのことを知っていたはず。『もう少し耐えれば援軍が来てくれる…。』と必死の覚悟で猛攻に立ち向かったのでしょう。
そして1587年。
とうとう豊臣軍の本隊が九州へ到着します。多勢に無勢で島津軍は薩摩(鹿児島)に追いやられ降伏。
岡城を守っていた志賀親次も追撃戦に参加し大活躍しました。その際、主家を裏切った父や親族を裁き自刃させます。
江戸時代から廃城まで
1592年の文禄の役での失策で大友義統(宗麟の息子)が改易処分を下されると岡城の志賀親次も城を去ることになります。
そして播磨国から中川秀成が入城。
その際、志賀氏の館を仮住居とし岡城を近世城郭の形に整えました。
明治維新を経て版籍奉還により領地が召され277年続いた中川氏の統治が終わります。
石垣を残し岡城の建物は取り壊されてしまいました。
岡城と滝廉太郎
岡城を眺める作曲家の滝廉太郎です。
17歳頃病気になり竹田市で療養。当時の先生や旧友に再会します。
そのときに名曲『荒城の月』を作曲したといわれています。
『かつては栄華を誇った城が今ではこんなにも荒れ果てている…。』といった心情を自分の人生に重ねたのではないかと私は考えています。
終わりに
受付で入場料を支払うともらえる巻物仕立てのガイドブックです。
このお土産はうれしい!
石垣の美しさとそこから見る絶景に圧倒されます。素晴らしい名所です。
竹田市を観光する際には滝廉太郎記念館と合わせて是非行っていただきたい場所の一つです。
おしまい!