飫肥城は宮崎県日南市中央部に位置する飫肥地区にあった城です。
築城年や築城者は不明ですが、少なくとも南北朝時代には存在していたのではないかと考えられています。
戦国時代に入ると伊東氏と島津氏が飫肥城を巡り争っています。
島津氏によって日向国から追い出された伊東氏は、路頭に迷いながらも最後は飫肥の地を取り戻し、明治維新に至るまで飫肥藩主を務めました。
明治時代に発布された廃城令で飫肥城は存城処分になっていますが、残念ながら建物は取り壊されてしまいました。
もう少し詳しく見ていきましょう。
飫肥城の場所
私は大分方面から向かったので宮崎自動車道・田野ICを下り、県道28号に入って山越えして飫肥に行きました。
他にも様々な行き方があります。
電車で行くなら飫肥駅を下車して城下町の風景を楽しみながら城に向かうとよいです。
飫肥城の歴史
文明十六年申辰、櫛間と飫肥殿弓箭出來す、櫛間の島津式部大輔久逸より伊東家を被賴候故、同年霜月、飫肥に御出張と聞えけり、祐國公…
日向記 巻三 飫肥御發向事より抜粋
文明16年は1484年。
島津宗家に反発した串間城主の島津久逸が伊東氏に助けを求めた場面です。
この後、伊東氏が兵を引き連れ新納忠続が守る飫肥城に攻め込んでいます。
戦いの最中に主君の伊東祐堯が病死し、跡を継いだ伊東祐国もこの戦いで戦死してしまいました。
1485年、伊東氏と島津氏の飫肥城外の戦い
当資料は豫章館(明治時代に造られた伊東氏の住居跡)の縁側に置いてありました。
この戦いで伊東祐国が戦死すると後継者を巡っての内訌が発生します。
祐国の弟である祐邑が豊後国の大友氏と内通している疑った伊東氏の外戚・野村氏が祐邑を殺害。野村氏は日向十一ヶ所を治める大勢力でした。
後継ぎの尹祐は祐邑の死を知り野村一族を粛清しています。これを『野村亂(野村氏の乱)』といいます。
このときの尹祐の年齢は18歳くらいですから、本人の意思もあったでしょうが、周囲の様々な思惑の末の粛清だと思われます。
島津氏との和睦
去程に、尹祐於飫肥祐國公討れ玉ふ事、誠其いきとをり深くをましわせは、一度飫肥を退治せん事計玉ふ、夫により大友殿より和與の儀として・・・中略・・・三俣千町當家に被相渡、去間伊東島津の間、是に依て暫は和與也、
日向記 巻三 尹祐庄内三俣知行事より抜粋
伊東尹祐は父が討たれたことに怒り再び飫肥に攻め入ろうとしますが、大友氏が仲介に入って島津氏と和睦します。その際に三俣千町を割譲されています。
尹祐の後継ぎは祐充でしたが、早世したため弟の祐吉が相続します。しかし祐吉もすぐに亡くなってしまいます。
その跡を継いだ義祐。彼の代から再び島津氏とのいざこざが始まります。
1568年、伊東氏と島津氏の飫肥城外の戦い
伊東氏と島津氏は1485年から1568年の約80年の間、9度に亘って飫肥城を奪い合いました。
戦いの末、伊東義祐は飫肥城を手中に入れ、日向国内の48の支城を治め、伊東氏の最盛期を築き上げています。
ところが1572年に起きた木崎原の戦いで島津義弘に敗北してしまい、一気に伊東氏は衰退して行く。
島津軍に次々と支城を落とされ、遂には飫肥城も奪われてしまいました。
伊東義祐・祐兵親子 流浪の旅
島津氏の勢いは衰えることなく伊東氏は本拠すら危うい状況に。
伊東義祐・祐兵親子は一先ず日向を捨てる判断を下し大友宗麟を頼って豊後国に落ち延びています。
しかしその大友宗麟も耳川の合戦で島津氏に大敗し滅亡寸前まで追い込まれてしまいました。
居場所がなくなった伊東義祐・祐兵親子は伊予、その後播磨国へ渡っています。
豊臣秀吉に仕える伊東祐兵
播磨国で伊東祐兵は羽柴秀吉と出会い織田氏に仕官、秀吉の与力となります。
織田信長が本能寺の変で亡くなったあとはそのまま秀吉の家臣になっています。
伊東祐兵は本当に運の良い武将でした。
豊臣(羽柴)秀吉による九州平定(1586年~1567年)。
伊東民部大輔祐兵主は、日來は秀吉公の御馬廻の供奉たりしか、日州の案内者として、黑田官兵衛尉組に入させられ、
日向記 巻十 仙石殿於豊後敗北事より抜粋
祐兵は黒田官兵衛に従って日向国の案内役となります。
また旧主君が帰って来たことを知った日向の侍は祐兵の元に続々と集まって来たという記述もあります。
祐兵は九州平定での活躍が認められ1588年、再び飫肥城に戻ることが出来ました。
九州の大名はこのとき秀吉に気に入られたかどうかで運命が大きく変わっていきました。
関ヶ原の戦いと伊東氏
1600年の関ヶ原の戦い。
大阪にいた伊東祐兵は大病を患っていました。
徳川家康の味方をするため豊前中津の黒田官兵衛からアドバイスをもらい息子の祐慶を九州へ送っています。
西軍の石田三成から出陣の催促が来ても病気を理由に従いませんでした。更に西軍の味方をした隣国の大名からの催促もありました。
かつては敵だった島津氏も朝鮮の役(文禄・慶長の役)などで話し合ったりする仲になっていたらしく伊東祐兵と島津中務小輔(島津豊久)のやり取りが日向記に残っています。
島津中務小輔、祐兵主の病氣後くらく思ひ伺ひ見んとにや、大阪出陣の砌、祐兵主の居所へ立寄、いさ出立玉へ同道せんと申されけるに、大病にて平臥の由を郎黨共答へけれは、直に可云事も有とて奥の亭に通、祐兵主病勞の躰を見て疑も晴ぬるにや、泪を流し、共に出陣せんとこそ思ひしに、大切の樣躰なり、隨分保養を加え玉へ、命有らは又こそ見參せめとて出られけり、
日向記 巻十二 奉行方依催促祐兵主二士を捨免害事より抜粋
島津豊久が大阪出陣の際に伊東祐兵のところへ訪れ共に出陣することを伝えますが、病気の祐兵を見て涙を流し『身体を大事にしてね。』と言ったとか。
めでたし!明治時代まで伊東氏によって治められた飫肥
伊東祐兵は病気が良くならず1600年に亡くなり、祐慶が跡を継ぎました。
伊東氏は関ヶ原の戦いで東軍に付いたため飫肥の所領を安堵されています。
その後、明治維新に至るまで飫肥の地は伊東氏によって治められました。
終わりに
飫肥城は明治期に発布された廃城令で存城処分になっています。
しかし、存城処分にも拘わらず明治初期に飫肥城は取り壊されてしまいました。
勿体ないですね。
以上が飫肥城と伊東氏の歴史でした。
おしまい!