北九州市の門司区にある門司城跡に行ってきました。
門司は『もじ』と読みます。
門司は九州と本州を結ぶ最短の位置にあることから古来より人の往来があり関所が置かれました。
この関所が門司関(もじのせき)と呼ばれ、そのまま地名になりました。
門司城の歴史
門司城跡の案内板に『平安時代後期に長門国目代の紀井通資が平知盛の指示を受け城を築いたと云われている。』といったことが書かれていました。
平家物語に紀井通資らしき人物の名前があるので引用します。
長門国は、新中納言知盛卿の国なりけり。目代は、紀伊刑部大夫道資といふ者なり。平家の小舟どもに乗り給へるよし承つて、大舟百余艘点じて奉る。平家これに乗り移り、四国の地へぞ渡られける。
平家物語 巻第八 大宰府落より
上の引用文は平家が緒方維義の反逆にあい九州から追われ四国に向かう途中の話です。
『紀井通資』と『紀伊刑部大夫道資』漢字は違いますが同一人物だと思います。違ったらすみません。内容は『紀伊刑部大夫道資は平家が多くの小舟に乗っているということを聞き大船を100隻奉じました。』というものです。
平家物語には門司城について書かれていませんが、立地的に重要地点でしょうから砦のようなものが建っていたのかもしれません。
案内板には1244年(寛元2)に平家残党討伐のため中原(藤原)親房が豊前国の代官として下向したとあります。
天治五年、下總前司親房築くと云う。
豊前志 三之巻 企救郡 門司城趾より
中原親房は門司半島を支配し、その子孫が門司氏を名乗りました。中原親房は源頼朝に仕えた中原親能の孫です。親能は豊後大友氏の祖・能直の養父。また毛利元就の先祖とされる大江広元の兄弟とも云われています。
門司氏は領内に幾つかの城を築き一族を配置し治めました。
南北朝時代には一族内で南朝と北朝に分かれて骨肉の争いが行われたようです。
室町時代後半は大内氏と大友氏がここを奪い合い、大内氏が滅亡すると毛利氏と大友氏が門司城の争奪戦を繰り広げます。
毛利元就と大友宗麟の戦いは苛烈を極める合戦が行われました。門司城の戦いは1558年から1562年に亘って数回争われ最後は毛利氏が門司城を手に入れ大友氏と和睦しています。
1569年に再び毛利氏と大友氏が多々良浜の戦いで争いますが、それはまた別の機会に。
1600年(慶長5)の関ヶ原の合戦後、豊前国に細川忠興が入ります。
慶長五年、細川矦當國を領地し、此の城を修造して、長岡勘解由左衛門を城代に置く。元和三年、城破却す。
豊前志 三之巻 企救郡 門司城趾より
1615年(元和1)に江戸幕府から一国一城令が発布され、門司城は1617年(元和3)に廃城となりました。
今回紹介した数枚の写真に近代的な遺構がありますね。
これは明治時代に大日本帝国陸軍が設置した下関要塞・城山砲台跡です。
以上が門司城の歴史です。
終わりに
門司城跡から少し下ったところにある駐車場から撮影した関門橋です。
私は関東地方から大分へ引っ越す際に初めてここを通りました。
数回通過した今でこそ何とも思いませんが、最初は無駄に感動した記憶が残っています。
おしまい!