日露戦争の日本海海戦で活躍した戦艦・三笠は復元され横須賀の三笠公園内に記念艦として見学できます。
まずは記念艦・三笠を紹介し、そのあと日露戦争時に乗船していた連合艦隊司令長官・東郷平八郎や参謀・秋山真之などの人物紹介をしていこうと思います。
それでは参りましょう!
記念艦・三笠へのアクセス
横浜横須賀道路の横須賀ICから本町山中有料道路に入ります。終点まで進み横須賀街道(国道16号)に合流します。少し進むと三笠公園入口の交差点がありますので左折します。あとは道なりに進むだけです。駐車場は有料であります。
電車なら京急電鉄は横須賀中央駅、JRは横須賀駅から三笠循環バスに乗れば公園を通ります。
三笠について
戦艦・三笠は日本がイギリスに発注して造られた軍艦。1903年に連合艦隊の旗艦(司令官が指示や命令を出す船)になりました。
そして日露戦争では旅順口攻撃、黄海海戦、日本海海戦に出撃し大いに活躍しました。
その後、ワシントン軍縮条約の時に帝国海軍から除籍、廃艦に。解体される予定でしたが絶大な人気を誇る三笠は防衛省管理のもと記念艦として保存されています。
この写真の灯籠は日本海海戦で射貫かれた戦艦・三笠の鉄板で作られたもので被弾鉄板雪見灯篭と名付けられています。
呉の鎮守府(海軍の後方最重要拠点)から伊藤博文に送られ、記念艦に復元された三笠へ戻ってきました。
トイレット跡です。
アメリカやイギリスの海軍は艦首にトイレがあったことからヘッド呼ばれているそうです。
主砲。
もちろん現在は塞がれています。
操舵室。
羅針儀と操舵輪は日露戦争当時に装備されていたもの。です。この部屋カッコいいですね!
上の絵は東城鉦太郎という画家が描いた三笠艦橋の図です。
下の写真は日本海海戦でバルチック艦隊と接触したときに指揮をとっていたお偉いさんの立ち位置。
戦闘中はかなり危険な場所ですが敢えて東郷平八郎は兵士の士気をあげるため敢えてここで指揮をとりました。
このあたりはロシアの砲撃によってできた水柱で水浸しになったといわれています。
実際に戦艦三笠の艦首にあった菊花紋章。
菊花紋章は皇室の紋章であり日本の国章です。
長官浴槽。
おしゃれな浴槽です。
食器室。
ここで調理をしていたのかな?そういえば東郷平八郎と肉じゃがの話は有名ですね。
これが肉じゃがの起源ともいわれています。※諸説あり。
東郷平八郎はここで寝ていました。
ベッドが小さいです。
船尾に位置する長官公室。
連合艦隊の各司令官や艦長との作戦会議、公式の晩餐会、お客の接待などで使われていました。三笠内部の紹介は終了。
以下は戦艦・三笠に関する人物についてです。
連合艦隊司令長官・東郷平八郎について
東郷平八郎は日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破った時の司令官です。
1848年(江戸時代最後期)に鹿児島で生まれ、1934年(昭和9年)に東京で死没しました。
初陣は幕末に起こった薩英戦争です。薩英戦争とは1863年に薩摩藩とイギリスの間で行われた戦争です。ことの発端は前年に起きた生麦事件(薩摩藩士がイギリス人を殺害)の賠償金支払いと犯人引き渡しをイギリスが要求。しかし薩摩藩は拒否したことからです。
イギリスが交渉を有利に運ぶために鹿児島湾で薩摩藩の船を3隻略奪し脅迫したが薩摩藩はこれに激昂し砲撃を開始。結果はイギリスが勝ちをあきらめて退却。両方人的被害は少なかったのですが薩摩側は砲台や民家が破壊されてしまいました。
東郷平八郎愛用の硯箱。
1868~1869年に起きた戊辰戦争では三等砲術士官として春日丸に乗船しています。
東郷平八郎愛用の宮内省手帳。
明治時代になるとイギリスに留学し国際法を学びました。これが後の豊島沖海戦(ほうとうおき)に活かされることになります。
豊島沖海戦とは日清戦争(1894年)の緒戦となった戦いで朝鮮半島西海岸の真ん中あたりで日本艦隊と清国艦隊が争いました。結果は日本艦隊の圧勝。
豊島沖海戦で東郷平八郎は巡洋艦・浪速の艦長をしていました。巡洋艦・浪速は清国に雇われたイギリス船で高陞号(こうしょうごう)を発見。イギリス国旗を掲げ清兵を1100名と武器を輸送している最中でした。
東郷平八郎は何度かイギリス人船長と連絡を取り合うが船長は清兵に脅され日本軍の命令に従うことができません。巡洋艦・浪速は警告を出し、とうとう高陞号を撃沈させました。
ちなみにイギリス人船長を含む何名かの船員は無事救出されたとのことです。
これの何が問題かというとこの時点で戦争は開始されていたのか、されていなかったのかということ。
あと相手がイギリス国旗を掲げていたのでややこしかったみたいです。で当時の国際法では警告を無視し続けた清国側に問題があり東郷平八郎の判断は正しかったという結論に至っています。
『皇国の興廃この一戦にあり各員一層奮励努力せよ』東郷平八郎直筆
1904年に開戦された日露戦争では連合艦隊司令長官として旗艦の三笠に乗り込み作戦全般を指揮しました。特に有名な日本海海戦ではヨーロッパ方面から打倒日本のためにやってきたバルチック艦隊を見事に破ります。
上の写真の文章は連合艦隊とバルチック艦隊の距離12000mに近づき戦闘が始まる直前に出した激励文。
日本海海戦での圧倒的勝利によりロシアとの和平交渉(ポーツマス講和会議)が行われ日本の辛勝で日露戦争の幕が閉じられます。しかし勝利したものの戦争賠償金は得られず日本は非常に苦しい立場になります。
東郷平八郎は日露戦争の結果、世界的に知られた英雄になりました。しかし後半生はあまりよい評価を受けていません。なぜなら重鎮として軍の政治に利用されてしまったからです。そんな話にのらず沈黙を保っていればよかったのにと言われたりしています。
参謀長・加藤友三郎について
写真右が加藤友三郎です。左は連合艦隊結成時の参謀長・島村速雄。
島村はとても優秀で評価されていましたが旅順口閉塞作戦の失敗や駆逐隊司令の一斉交代の責任を取る形で自ら辞職しました。そして島村は自身の後任として友人の加藤友三郎を指名しました。
加藤友三郎は1861年に広島で生まれ1923年満62歳の時に死没しました。5つの内閣で海軍大臣を務め、1922年に内閣総理大臣になりましたが在職中に亡くなってしまします。生前の階級は海軍大将。没後に元帥の称号を与えられました。
軍人としては地味で目立たない存在ですが、当時の日本の状況をよく理解している数少ない人物でした。『次に戦争する可能性があるのはアメリカだろう。しかし今現在アメリカと戦争できる金はないし今後その金が入る見込みもないのだから日米戦争は不可能。
我々がやるべきことは外交によって戦争を避け、国力を増強させることだ。(超訳)』と考えていましたが、この文章の原本は太平洋戦争が終わるまで海軍の機密文書として金庫に封印されてしまいました。
もし加藤友三郎のような人物が国の舵を取っていれば日本の歴史は今と違うものになっていたかもしれません。
艦長・伊地知彦次郎について
左から4番目の(双眼鏡を目に当てている人の隣)人が伊地知彦次郎(いぢちひこじろう)。
1860年に薩摩で生まれ。1912年死没。最終階級は海軍中将です。
イタリア公使館付武官を務めたり日清戦争にも参加しています。
日本海海戦で加藤友三郎参謀長から敵前大回頭の指示がでたとき伊地知艦長は心の中で「まじかよ?!」と思ったそうです。
自身も常備艦隊参謀長を務めていたことがあり、この大回頭(トーゴー・ターン)をすることによって戦艦・三笠が撃沈される可能性があることを理解していました。まぁ成功しましたが一か八かの作戦だったわけですね。
参謀・秋山真之について
1868年に伊予(愛媛県)松山で生まれ1918年に49歳で亡くなりました。名前は「さねゆき」と読みます。兄に日本騎兵の父・秋山好古(よしふる)がいます。
また俳人の正岡子規が親友。人間関係は司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読むなり、観るなりすればわかりやすいです。
アメリカに留学したときにサンチャゴ・デ・キューバ海戦(米西戦争)を観戦。アメリカ側の閉塞作戦(港口に船を自沈させ敵船の動きを封じる)を参考に旅順口閉塞作戦を練りました。
アメリカから帰国後、常備艦隊の参謀になります。日露戦争では連合艦隊の参謀になり様々な作戦を立案したとされています。例えば、丁字戦法なんかが有名ですね。ただ丁字戦法に関しては「丁字戦法はあったvs丁字戦法はなかった」の両者で今でも議論され続けています。
秋山真之は『本日天気晴朗ナレドモ波高シ』という名言を残しています。この言葉にはどのような意味があるのか?と様々な憶測が飛び交っています。面白いですね!
日露戦争後は国内外の政治に関わり活躍しました。晩年は霊研究、宗教研究に没頭したそうです。
終わりに
日露戦争は江戸時代が終わり開国し間もなく起きた近代戦争です。恐らくどの国も日本が勝つとは思っていなかったでしょう。
めでたく列強入りした日本ですが、やがて世界の荒波に飲まれ苦渋の選択を迫られることになります。また、日露戦争のときのように奇跡が起こるのではないだろうか?と。
おしまい!