駅近で大型ショッピングモール『リバーウォーク北九州』に隣接する小倉城跡。
親子連れやカップルのデートにとって最高のロケーションではないか。
さて、小難しい歴史の勉強の始まりだ!
早速、小倉城の歴史を振り返ってみましょう。
小倉城の場所
北九州都市高速道路の大手町ランプを下りて約5分で着きます。
勝山公園有料駐車場が最寄りの駐車場ですが、満車でしたらリバーウォークの有料駐車場に停めましょう。
休日や時間によって交通混雑が予想されますので、電車の利用をおすすめします。JR西小倉駅から徒歩で10分くらいです。
往古の小倉城
Wikipediaを始め多くのサイトで小倉城について調べると『文永年間(1264~1274)に緒方大膳亮惟重が居城した。』と書かれていることが多いです。
これは江戸時代中期の歴史家・春日信映によって書かれた倉城大略志に記されています。
私には読めない字ばかりで穴だらけになってしまいますが引用しておきます。
※〇のところが読めなかった部分。
文永〇〇緒方大膳亮惟重豊前小倉の城〇〇〇智謀仁勇と以て威を震ふ〇となり〇子緒方八郎惟為其子緒方石見守惟尚相続して在城たり
倉城大略志
緒方大膳亮惟重は恐らく平家物語に登場する緒方三郎惟栄の子孫だと思いますが正確なことはわかりません。
豊前史では小倉城の言い伝えについて下のように書かれています。
傳へ云う。往古榮西と云ふ僧、此所に庵を建て、指月庵と名けて居れり。正和の頃、菊池武光、其の庵を足立山の麓に移して、此の城を築き、三男彌太郎武親を置たりと云う。
豊前志 三之巻 企救郡 小倉城より
榮西(栄西)は平安時代後期から鎌倉時代初期の僧侶。臨済宗の開祖として有名ですね。
菊池武光は南北朝時代に九州で活躍した武将です。
緒方大膳亮惟重、榮西(栄西)、菊池武光。どれも伝説の域を出ないという感じです。
小倉城の公式HPではここら辺のことを上手くまとめています。
関門海峡に面した小倉は、陸海の交通の要衝として、古くから砦や城が構えられた地でした。この地を抑えるために繰りひろげられた、多くの豪族たちの攻防の歴史も残っています。
戦国時代の小倉城
戦国時代には毛利氏と大友氏が小倉周辺で激しい戦闘を繰り広げています。
少なくともその頃には小倉城があったようです。
豊臣秀吉による九州征伐(1568~1567)の後は毛利勝信が小倉城に入城しています。
関ヶ原の戦いで毛利勝信は西軍に味方したため小倉城は東軍(?)の黒田官兵衛に囲まれ降伏、落城しています。
その後、毛利勝信は改易されています。
細川氏の統治
関ヶ原の戦いの論功行賞で細川忠興に豊前国中津が与えられます。
細川氏は中津から政庁を小倉に移し小倉城を改築、城下町の整備を行いました。その際に造った5層の天守は唐造り(南蛮造り)と呼ばれる少々変わった形をしていました。
上の写真の天守上部をご覧ください。下から4段目が下層より出っ張っています。これを唐造りと呼ぶそうです。普通の城は上に向かってスーッと閉じて行く形をしていますね。
私はあまり好きな形ではありません!
糠漬けと小倉
1632年に細川氏が肥後国(熊本)に移封すると小笠原忠真が播磨国明石から小倉藩に入ります。
小笠原氏は国宝・松本城(長野)にゆかりのある家系です。
そして小笠原忠真といえば糠漬けマスターで有名。
小倉城下に糠漬けを広め、現在までその影響を残しています。
幕末まで小笠原氏によって小倉は領されることになります。
第二次長州征討で小倉藩が無くなる?!
幕末期の第二次長州征討で小倉藩は長州藩に攻め込まれます。劣勢だった小倉藩は城に火を放ち香春(かわら)に撤退しています。
小倉藩と長州藩の和睦が成立します。しかし小倉城があった企救郡(きくぐん)は長州藩に占領されてしまったため、小笠原氏は藩庁を小倉から香春へ、更に豊津に移動させます。後年、それぞれ香春藩、豊津藩と呼ばれるようになります。
小倉城、及び小倉藩はこうして無くなってしまいました。
後に小笠原氏は華族として認められ伯爵になっています。現在もその家系は途絶えることなく続いています。
明治に置かれた第十二師団司令部
1898年(明治31年)、小倉城本丸跡に第十二師団司令部が置かれました。
写真のレンガ造りの門は当時のものです。説明板によると『第十二師団の軍医部長を務めた森鴎外もこの門を通って登庁しました。』と書いてありました。
終わりに
以上が小倉城でした。
桜の蕾が開きそうで開かない時期の登城でしたが、花見のお客さんですこぶる賑わっていました。
もし、満開期に行っていたらと想像するとゾッとします。
おしまい!