皆さんは回天、伏竜、震洋、桜花をご存知でしょうか?
これらは第二次世界大戦末期に開発された非人道的な兵器の名前です。(まぁ、兵器はすべて非人道的だと思いますが…。)
回天は人間魚雷、伏竜は素潜り槍爆弾、震洋は肉弾ボート、桜花は特攻飛行機。
戦争では窮地に追いやられた部隊が起死回生のため死を覚悟して突撃したり、仲間や重要な何かを守るため自らの命を犠牲にして自爆することは珍しくありません。それは後々美談として語り継がれ場合も多いです。
しかし自爆行為が組織的に行われたとなると話が変わってきます。国や上司が特攻兵器や部隊を作り(例えそれが個人の志願だとしても)兵隊に命令し突撃させる。これは悲劇となり批判の対象になっています。
私は戦争に対して賛美も批判もしません。
実際に戦争を体験したらどう思うのだろうか?
勝てば官軍負ければ賊軍という言葉の通り勝てれば良いのかもしれません。
問題は負け戦の時で『もし敵国が本土に侵入してきたら?』とか『国土が悉く破壊され、親族が殺され、妻・恋人が犯される』とか絶望と怒りが混じったような感情に支配されそうです。
『守るために…。』という理由で特攻の発想が出てきても不思議でない気がします。特攻作戦が決断されたのも止むを得なかったとも考えられなくない。自分の犧牲で救われるものがあるならば…。
こんなことを思い巡らせていると私はこの言葉を思い出します。
さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし
歎異抄 十三
『そのとき、その状況に置かれれば人間何するかわかったもんじゃないよ。』的な意味。これは鎌倉時代の僧侶である親鸞聖人がいったとされる言葉です。
自分が実際にその立場にいたらどうだったのだろうか?
前置きが長くなりました。
本題に入ります。今回は人間魚雷『回天』に関わって殉職した霊を祀っている回天神社と回天基地の大神訓練基地跡について紹介致します。
それでは参りましょう!
回天神社&大神訓練基地跡へのアクセス
別府方面からは日出町まで向かい国道213号の産業通りの交差点を右折、県道643号を道なりに進み大神小学校の近くにある信号を右折。その後は案内板に従えばok。
大分空港方面からはまずは別府方面へ向かい空港道路に入らず杵築方面へ。中野田交差点を左折し道なりに進みます。突き当たりを右折し県道643号に入ります。
そして大神小学校の近くにある信号を左折すれば到着します。
回天神社
回天神社がある大分県の日出町にはかつて大神訓練基地がありました。
この基地に格納された回天を使用し別府湾で訓練していました。
神社には縦舵機、発停装置、燃焼器推進軸受の回天3部品が御神器として祀られています。
大神訓練基地は太平洋戦争初期に戦艦や空母などの大型船が建造できる工廠基地として建設される予定でした。ところが戦況の悪化により建設は中止になってしまいます。
1944年(昭和19)に山口県周南市の大津島、光、平生に回天基地が建設され、続いて大神海軍工廠基地の予定地の一部に回天基地が建設されました。
基地の様子を見ていきましょう。
酸素圧縮ポンプ室
圧縮した酸素を製造するポンプが設置されていた場所です。
回天格納壕
一枚目の格納壕は一基用で二枚目は約120mの大規模格納壕。
終戦直前には爆弾を搭載した回天が8基格納されていたそうです。
魚雷調整プール
回天をこのプールに沈めて水漏れなどの検査をしていました。
回天記念公園
実物大の回天を観覧できる回天記念公園です。
もう少し小さいものかと思っていましたが意外に大きくてびっくりです。
これに乗って脱出できない死の旅に出掛けると想像すると変な汗が出ます。恐ろしい…。
回天を創案したのは黒木博司大尉と仁科関夫中尉です。二人は人間魚雷の実戦投入を上層部に嘆願しますが、時の軍令部総長・永野修身に『それはいかん』と却下されています。黒木、仁科両人が人間魚雷の発案に至ったまでの心持はどんな感じだったのか気になるところです。
戦況が悪化していき海軍中枢部が人間魚雷に注目し始めると『搭乗員の脱出を可能にする』という条件付きで開発が進められていきます。しかしながら脱出のための装置が未装着のまま米内光政海軍大臣(この方に関しては評価がかなり割れる)によって兵器として採用されてしまいます。
黒木大尉は訓練中に回天が海底に突き刺さり身動きが取れなくなり殉職。このとき黒木は今後のための報告書と遺書を書き亡くなっていきました。
仁科中尉は菊水隊の一員としてウルシー環礁へ出撃し特攻死。この戦いでアメリカの給油船ミシシネワを撃沈させる戦果をあげます。誰がミシシネワに特攻したかは不詳。出撃前に仁科中尉は日記に『黒田少佐を偲ぶ』と残しました。
回天の性能
■全長:14.75m
■直径:1.00m
■全重量:8300kg
■速力:30ノット(航続距離23km),10ノット(航続距離78km)
■頭部炸薬:1550kg
■燃料:酸素、白灯油
■搭乗員:1名
人間魚雷「回天」大神訓練基地 発行元 大分県日出町より
大神訓練基地からの初出撃は1945年(昭和20)の8月。8名の隊員が回天8基とともに愛媛県宿毛湾へ。8月12日、出撃待機命令を受けましたが、15日出撃することなく終戦を迎えます。大神訓練基地での死者は病死1名、被弾戦死6名、松尾少尉の自決、計8名でした。
大神からの出撃で戦死者は出ませんでしたが山口県から出撃した部隊は実際に特攻し約100名の戦死者を出しました。戦果は給油艦、護衛駆逐艦、歩兵揚陸艇。計3隻を撃沈。他にも数基の小破、大破があったそうですが詳細はわかりません。
各科倉庫壕
これは非常時に使用するため掘られたのではないかとされています。
燃料格納壕
アルコールや重油などの燃料が保存されていた壕。現在は水が張っているため入るのは困難で内部の確認は難しいですが、中はL字になっているそうです。戦後しばらくの間は燃料が格納されていました。
変電所
大神訓練基地にある壕の中で最大規模で最も強固に作られている変電所。
終わりに
まだ大神訓練基地跡には様々な遺構があります。
現在は住居の一部として使われていたり、田んぼや畑のど真ん中に在ったりしてすべて見つけることは出来ませんでした。
今度は詳しい方々と一緒に行ってみたいものです。
おしまい!