井伊直弼と吉田松陰。
豪徳寺で細々と眠り、片や松陰神社で祀られる。
これは歴史の皮肉でしょうか。
時は幕末。日本に黒船がやってきたあたりのお話です。
徳川幕府大老の井伊直弼は海外からの圧力により、勅許を待たずして日本に不利な日米修好通商条約を調印してしまいます。
また、徳川家の後継ぎを一橋慶喜にすべきという朝廷の意に刃向かい徳川家茂を後継者に挙げます。
幕府のやり口に尊王攘夷の志士達は怒り、打倒「井伊直弼」と立ち上がりました。
これに対して井伊直弼は強硬手段を選びます。安政の大獄です。
尊王攘夷派、反発者などを悉く粛正。
謹慎、島流し、死罪。
吉田松陰はこれに連座され、1859年(安政6年)10月27日、伝馬町牢屋敷で斬首されてしまいます。
そして翌年1860年。
一連の流れで尊王攘夷派の恨みを買った井伊直弼は桜田門で惨殺されるという結果に終わりました。
豪徳寺の起源
豪徳寺本殿。
大谿山(だいけいざん)豪徳寺の前身は、1480年に世田谷城を治めていた吉良政忠が亡き伯母を弔うために建てた小さな庵『弘徳院』だと言われています。
初めは臨済宗でしたが、門庵宗関和尚(もんなんそうかん)によって曹洞宗に改宗されました。
ちなみに和尚は今川義元の孫で泉岳寺の開祖です。
豪徳寺と井伊家
豪徳寺三重の塔と紅葉。
1633年に世田谷領は譜代大名である彦根藩井伊家の支配領となります。
徳川幕府の中枢にいた井伊家は江戸に滞在することが多く『江戸に土地があったら便利だろ?』といった理由で幕府から拝領されました。
ちなみに彦根藩初代藩主は赤備えで有名な井伊直政です。
豪徳寺と招き猫
豪徳寺は招き猫の起源の地としても有名です。
すると寺の中から手を招いている猫を見つけます。
『不思議なこともあるもんだ?』と興味を示し、誘われるように寺の中へ。
ここで休憩していこうと腰を下ろしたとたん、激しい雷雨が降ってきました。
しばらく動けない武士は寺の住職と対話をして時間を潰しました。
雨が止み武士は『猫に招かれなければ、道中雨に降られて誠に大変なことになっていた。和尚の高尚な話も聞け、とても有意義な時間を過ごせた。ありがとう。』と言って帰途に就く。
後日、その武士から多額の寄付があり住職は仰天!
寺は寄付によってきれいに整備され、手招きをした猫が亡くなると住職は感謝の気持ちを込めて猫のお墓を建て祀りました。
めでたしめでたし。
とある武士の名は彦根藩2代目藩主の井伊直孝です。
後に、この寺は江戸における井伊家の菩提寺となり直孝の戒名『久昌院殿豪徳天英大居士』の豪徳をいただき豪徳寺と名付けられました。
これが招き猫の起源と言われています。※諸説あります。
国史跡 豪徳寺井伊家墓所
豪徳寺には井伊家代々の墓があり、国の史跡に指定されています。
6人の彦根藩主、江戸に住んでいた正室、側室。子息子女、一部の家臣など303基に及ぶ墓所です。
上の写真は彦根13代目藩主『井伊直弼』の墓。
研究によると井伊直弼の遺骸はここにないようです。では何処へ行ったのか?
暗殺された直弼は首を切られました。
後に井伊家の家来が首を取り返し縫い合わせて豪徳寺へ埋葬したと伝わっています。
でも骨が見つからない・・・。幕末ミステリーです。
終わりに
井伊直弼の遺体は荒らされないよう豪徳寺内の別の箇所に埋葬されたのではないかとも言われています。
国史跡に指定されているため地中深くまで掘れないとのこと。
もしかすると凄く深い穴を掘って埋葬したのかもしれません。
おしまい!