1876年(明治9)10月24日、神風連の乱は起きました。
元肥後藩士の太田黒伴雄、加屋霽堅、斎藤求三郎が率いる神風連(敬神党)は明治政府に戦いを挑みます。
熊本鎮台の司令長官や県令を襲撃し、その後熊本鎮台(熊本城)へ向かいます。
神風連は奮戦するも…。次第に追い込まれ相次ぐ指導者たちの戦死により瓦解しました。
佐賀の乱、神風連の乱、萩の乱、秋月の乱、西南戦争。
これらは明治初期に起きた士族の反乱として有名ですね!
ただ神風連の乱は他の反乱と比べると毛色が違うように感じました。
今回は熊本市黒髪にある桜山神社、境内の神風連資料館、熊本城や護国神社にある神風連の乱関連の史跡を見に行ってきました。
それでは神風連の乱についてもう少し詳しく見ていくことにしましょう。
神風連資料館へのアクセス
県道337号線(豊後街道)沿いにあります。
駐車場は桜山神社のすぐ近くの信号を曲がった小路の左側にあります。
参道から入らないよう気を付けてください!信号のところを曲がるのです。
林桜園について
神風連資料館 収蔵品図録より
神風連の乱を語るに外せない人物です。
林桜園は1798年(寛政10年)に生まれ、1870年(明治3年)で没した肥後国の思想家です。名を有通または通誼といい、元寇の際に活躍した河野通有の子孫だと伝わります。
40歳の時に原道館を開き1000人以上の生徒を教育しました。1869年(明治2年)には明治政府から古典の大家として招かれ岩倉具視や有栖川宮と対談しています。
世の中のことはみな神の指定によるもので、直日ノ神と禍日ノ神の二流があり、各々そのはたらきによって吉凶盛衰がおこるといっています。
神はまた人が誠をつくして祈れば必ず感応するというのです。
この人はまた大事を決する時は宇気比といって神示をうけることを教えました。
神風連資料館 収蔵品図録 140頁より
桜園は『神を敬い、国を愛する心が肝心である。』と神道を究め自ら実践しました。
生徒には肥後勤王党として活躍する宮部鼎蔵、河上彦斎、轟武兵衛などがいました。
そして神風連の乱を起こした太田黒伴雄や加屋霽堅も彼から教えを受け、志を引き継ぎました。
神風連の乱の背景
幕末の志士たちは様々な思惑のなか、命を賭して活動しました。
『天皇こそ日本の王!外国に靡く幕府許すまじ!』とする尊皇攘夷派のちからは凄まじく世の中に大きな影響を与えました。尊攘思想が新しい日本を造り上げたと言っても過言ではありません。江戸幕府を滅ぼし新政府を樹立したメンバーの中には尊攘思想を持っている者が多くいました。
林桜園や太田黒伴雄は『これからは天皇中心で外国に拠らない理想的な日本に生まれ変わる』と喜んだのかもしれません。
しかし理想通りにはいきませんでした。
新政府は日本国を外国から守るため海外の教育、制度、法律、宗教などを日本に取り入れます。また、武士文化の排斥を徹底的に行います。
敵を知らなければ勝てませんし、武士は幕府の名残ですからね。
神風連(敬神党)の人々はこの時流を憂いひたすら神に祈ったそうです。
神風連の人々の願いは届かず国は彼らの言う正道にかえりませんでした。
彼らは3つの案を出し宇気比(神に対しての申立)の儀式を行います。
一、政府に建白して今の政治を改めさせる。
二、刺客となって奸臣を仆す。
三、義兵をあげて世の流れをかえる。
神風連資料館 収蔵品図録 141頁より
しかし神はどれも許可しませんでした。
止む終えず彼らは3つの誓いを立て志を共有します。
一、神を敬い国を護り尊攘の大義をつらぬき聖慮を安んじ、また国民の苦難を救う。
二、神ながらの道を奉じ、被髪脱刀等の醜態はたとえ朝命があっても反対する。
三、同志の結束を堅くし、礼儀を守り、苦楽をともにしてゆく。
神風連資料館 収蔵品図録 141頁より
1871年(明治4)の散髪脱刀令。1876年(明治9)の廃刀令。
街には髷を落とした若者が往来し帯刀する者もいなくなってしまいました。
神風連の人々は新政府のやり方に憤慨し暴発寸前になります。
太田黒伴雄は幹部を集め再び宇気比を行い神にお伺いを立てることにしました。
すると今度は義挙の許可が下りたのです。
開戦!神風連の乱
太田黒伴雄率いる神風連は熊本鎮台の近くにあった愛敬正元の家に集結します。
夜になり、ひと目を避けて集まる者170名。
首領太田黒伴雄は背に軍神八幡宮の御霊代を背負っていました。
『御神勅』『天照皇大神』『動』『静』などの旗が翻っています。
神風連資料館 収蔵品図録 142頁より
槍、刀のみで近代装備を持つ政府に立ち向かいます。
まずは熊本鎮台の司令長官・種田政明宅を襲撃。種田を討ち取ります。
続いて参謀長の高島茂徳を血祭りに上げます。
そして熊本県令・安岡良亮宅を襲撃。安岡県令は重傷を負い3日後に病院で亡くなりました。
太田黒伴雄は70名を従え熊本鎮台の砲兵営を攻撃。
突然の出来事に慌てふためく鎮台内の兵士たち。ふんどしのまま逃げ惑う彼らはどんどんと神風連に斬られていきます。
富永守国が率いる70名は二の丸の歩兵営に向かいます。
熊本鎮台は敵の数や武器を全く把握出来ていませんでした。実態のつかめない敵を相手にする恐怖が兵士たちの士気を下げていました。
しかし多勢に無勢です。
熊本鎮台は次第に立ち直り銃で応戦し始めます。砲兵営を占拠した太田黒伴雄隊が富永守国隊の援護に来ましたが接近戦しか出来ない神風連に勝ち目はありません。
次々と銃弾の餌食となります。
斎藤求三郎、副首領の加屋霽堅はここで戦死しました。
太田黒伴雄も胸に銃弾を受け致命傷を負います。
同志に抱えられ法華坂方面に退却し、近くの民家に身を寄せました。
太田黒は介錯を義弟大野昇雄に命じました。
『時に自分はいまどちらを向いているか』
『西へお向きでございます』
太田黒はそれを聞くと、声をしぼって
『聖上が東にましますのにどうして背後をお向けできよう。すぐ東に向け直し、わが首をうってくれ、ああ自分は生きて聖慮を安んじ奉ることができなかった。この上は死して神となり必ず夷賊をうち攘うて皇恩にむくいたい』
そういうと、周囲の者にニ三のことを指示し、命によってふりおろす大野の太刀の前に首をさしのべるのでした。
時に四十三歳。
神風連資料館 収蔵品図録 143~144頁より
生き残った富永守国たちは島原に渡り、萩や秋月の同志に加わって再挙を図ろうと考えます。
ところが干潮で船が出ず金峯山に登って作戦を練り直すことにしました。
山に登った人数は46人だったと云われています。
再び熊本鎮台に斬り込むことに決まりましたが、若者たちを突撃に加えるのは忍びないと嫌がる少年たちを無理やり山から下ろしています。その後、無念に打ちひしがれた幾人かの少年は自刃してしまいました。
一党は下山し城下近くまで行くも、警備が厳重過ぎて近づくことすら出来ません。
仕方なく解散し各々の最後を遂げ神風連の乱は終わりを迎えました。
終わりに
以上が神風連の乱についてでした。
士族の反乱という一面もありますが、どちらかというと宗教色がかなり強い反乱のように感じました。
この事件のあと、萩の乱、秋月の乱、そして西南戦争へと続いて武士の時代が幕を閉じます。
おしまい!