豊薩合戦・戸次川の戦いは豊臣秀吉による九州平定(1586年~1587年)の緒戦です。
戸次川の戦いまでの経緯
耳川の合戦(1578年)や沖田畷の戦い(1584年)で勝利を収めた薩摩国の島津氏は九州統一を目指し進軍します。
それに抵抗するため豊後国の大友宗麟は豊臣秀吉に助けを求めますが、秀吉は織田信雄、徳川家康と対峙していたため九州へ兵を送ることが出来ませんでした。
大友氏は何とか持ち堪えていました。しかし戦上手の戸次鑑連(立花道雪)が病死してしまいます。
これを知り島津氏は筑前(福岡西部)に侵攻します。高橋紹運が守る岩屋城の戦い(1586年)で島津勢は勝利。しかし予想以上の被害、そして時間を掛けすぎてしまったため次の攻略目標であった立花山城を攻略することが出来ず薩摩に撤退します。
島津勢は軍を立て直したあと日向(宮崎)、肥後(熊本)方面から大友領に攻め込みます。大友氏は奮戦するも島津氏の勢いに勝てず追い込まれていきます。そのとき待ちに待った豊臣勢の援軍がやってきます。
島津軍に攻められていた鶴賀城を救援するため鏡城に入り評定を開きます。
※鏡城から南東の位置、戸次川対岸に鶴賀城はありました。
この後に起こった合戦が戸次川の戦いです。
豊臣秀吉は門司(北九州)に毛利、吉川、小早川の中国勢が構えているのだからじっくり豊後の守りを固めて島津を追い込もうぜ!という作戦を考えていたようです。
戸次川の戦いについて
此川九州一の大河にて、頗る難所なり。然りと雖大勢に切所なし。何ぞ怖るるに足らん。いざや諸軍一同に渡して、一戦に勝負を決すべし…
土佐物語 国史研究会編 巻第十五 四九〇頁より
仙石秀久は『戸次川は難所だけど人数いるし怖れることはない!』と言いました。
此川を渡さん事、以の外の大事なり。敵川端を引退きて備へたるは、堤の陰に伏兵ある事疑なし。川の半途にして、鐵炮を打ち立つるものならば、先陣は一人も、生きて歸る者あるべからず。
土佐物語 国史研究会編 巻第十五 四九〇頁から四九一頁より
長宗我部元親は『不用意に川を渡ったらやばいよ。』と仙石秀久に反対します。
三好隼人正存保進み出て、仙石殿の仰其理あり。
土佐物語 国史研究会編 巻第十五 四九一頁より
十河存保は仙石秀久の意見に賛成。
結局、戸次川を渡り鶴賀城の援軍に向かうに決定します。
戸次川の戦いの結果
結果は島津勢の圧勝で終わります。
長宗我部元親が言ったように先陣が戸次川を渡ったところで伏兵の銃撃に遭い壊滅、後陣はこれを見て引き返そうとしたところ島津勢は早々に川へ入り追い討ちします。土佐物語によると仙石秀久は小倉の城へ、大友義統は妙見龍王の城へ逃げ込んだとあります。
長宗我部の3000騎は新納忠元率いる5000騎と戦うことになります。善戦するも多勢に無勢、しかも相手は戦上手の島津氏です。戦闘中に元親、信親父子は離れ離れになってしまいます。
元親は伊予国日振島に命辛辛落ち延びますが、信親は敵に囲まれ(わざと囲まれたのかもしれない)最早これまでと悟り徹底抗戦します。信親の兵700騎は我先にと勇敢に駈け出て殆どが戦死、信親も鈴木内膳という者に打ち取られてしまいます。まだ22歳でした。
十河存保もこの戦いで討ち死にしています。仙石秀久は秀吉の怒りを買い改易に。※後に許され復帰します。
おわりに
戸次川の戦いのあと島津軍は鶴賀城、鏡城、そして大友義統の府内城を落とします。
大友氏は殆ど壊滅状態になってしまいます。
しかし島津氏の九州制覇は間に合わず。
豊臣秀吉は1587年に大軍を送ります。
島津軍は大友攻めを諦め撤退。
日向(宮崎)で起きた根城坂の戦いで敗北し、手薄な九州西部から豊臣勢に攻められ降伏します。
こうして九州は統一され、秀吉は関東地方、そして東北地方の攻略に乗り出します。
おしまい!