南洲墓地 案内板『命もいらず名もいらず』より
篠原国幹は薩摩藩の武士、及び陸軍軍人です。
戊辰戦争では薩摩藩三番小隊長として鳥羽伏見の戦い、上野戦争、奥羽征伐を転戦。その功績により陸軍大尉、次いで陸軍少将に任命されます。
明治六年政変で西郷隆盛が参議を辞職し鹿児島に帰郷すると篠原もそれに追随、1877年(明治10年)の西南戦争で一番大隊大隊長となり奮戦するも吉次峠で銃弾を受け戦死してしまいました。
西南戦争をめぐる旅の一環で篠原国幹に関連する場所を訪れました。
2.吉次峠
3.篠原国幹の墓(南洲墓地)
それぞれの写真と共に篠原国幹についてもう少し詳しくご紹介します。
1.篠原国幹誕生之地
篠原国幹誕生之地は↓です。
1837年(天保7年)、篠原国幹は薩摩国(鹿児島県)で誕生しました。通称を冬一郎といいます。
若い頃に薩摩の藩校・造士館で学び、和漢学を修めました。
鳥羽伏見の戦いから始まる【明治政府vs江戸幕府】の争いでは薩藩三番小隊長として幕府軍を次々と撃破し、その功が認められ陸軍大尉、次いで陸軍少将に昇格していきます。
國幹、韜略深沈、多ク事ヲ誤ラズ。隆盛ガ、大事機密ヲ談スルヤ、必ズ先ズ國幹一人ニ謀議ス而シテ桐野、村田諸氏旣决ノ後ニ非ズンバ知ルヿ能ハズ。
西南戦史 第三編 篠原國幹小傳より
西郷ファミリーと言えば桐野利秋や村田新八、あとは別府晋介あたりの名前がよく知られていると思います。
西南戦史のこの一文を読むと西郷さんは部下の中で誰よりも国幹を信頼していたと読み取れます。
それほどの人物なのに何故か篠原国幹は余り目立っていません。それは前者3名にあって国幹にはないものがあるからだと私は考えています。
もう少し話を進めて行きましょう。
2.吉次峠(国幹戦死の場所)
吉次峠(国幹戦死の場所)の場所は↓。
明治六年政変で西郷隆盛が下野し鹿児島に戻ると、国幹もそれに追随。西郷たちと私学校を設立し、その監督者となります。
西郷だけでなく多くの仲間から頼られていたことがわかる一文が残っています。『西郷の下野に続くか否か?』と皆が悩んでいたときのお話です。
時ニ種田少將等、相謂テ曰ク『陸軍士官。相去ル者。踵ヲ接ス。慮ナシト爲サズ。然レトモ、篠原氏ノ在ルアリ。桐野等相去ルト雖トモ、猶未タ憂フルニ足ラズ、』ト。談未タ止マサルニ、国幹モ亦去ル。近衛兵一時皆罷メ去ルニ至ル。諸氏相顧ミテ茫然タリシト云フ。』
西南戦史 第三編 篠原國幹小傳より
談話が未だ止まらないうちに、国幹もまた去る。近衛兵が一時皆やめて去るに至った。
皆、振り返ってみて茫然したと云う。
3.篠原国幹の墓(南洲墓地)
南洲墓地は↓にあります。
1877年(明治10年)、私学校徒の暴走により西南戦争が始まります。
西南戦争では一番大隊の大隊長として出陣。熊本城包囲戦では城の背面を担当し籠城兵と激戦を繰り広げました。
池邊吉十郎、戰に臨んで、國幹の軍を指揮する様を見るに、國幹に常に兵士に先きんじて、自ら銃を取つて射撃するのみで、曾つて一語の號令をも發せぬ。しかも兵士の行動は指揮官の意のまゝになつて、殆んどおのが掌の指を繰るが如きものがあつた。
近世名将言行録 第一巻 篠原國幹より
率先して先頭に立つ寡黙の将。
一軍を預かる将として正しい姿だとは思えませんが、一緒に戦う兵士の士気はかなり高かったでしょう。
熊本城の包囲が長引いたため新政府の援軍が続々と送られ、その対応に薩軍は追われることになります。篠原国幹は小隊を引き連れ田原坂・吉次峠方面の守りを固めました。
そして国幹は吉次峠を巡る戦いのなか敵の銃弾に当たり戦死してしまいます。西南戦争が始まって1ヶ月足らず。余りにも早すぎる死です。(西南戦争はここから半年ほど続きます。)
先に『桐野利秋、村田新八、別府晋介』に共通して国幹はないものがあると言いました。
西郷隆盛を題材にした小説やドラマは多くありますね。殆ど作品が西南戦争を劇的に演出するでしょう。追い詰められた西郷隆盛が城山から下り、全てを終わらせるシーンは特に印象的です。
国幹は西南戦争の最序盤で戦死してしまいましたが、前者3名は西郷隆盛の死を見届けて亡くなったため物語のクライマックスを飾ることが出来たのです。そのため多くの方々の記憶に焼き付けられたのではないでしょうか。
私が『篠原国幹が他の3人より目立たない気がする。』と言う理由はここから来ていると思います。
終わりに
田原坂公園 弾痕の残る家の資料館より
比之長人。桐野爲高杉晋作。篠原爲久坂義助。吉田松陰爲西郷。
明治史伝 篠原国幹より
なんか違う様な気がするけど…。
まぁ、いいや。
おしまい!