九州の小京都と称される飫肥の城下町。
今回は城下町に点在する歴史スポットを紹介します。
それでは参りましょう!
飫肥の城下町を巡る前に
飫肥の城下町には見学有料の施設が7軒あります。
・大人610円
・高校生/大学生460円
・小学生/中学生360円
じっくり飫肥を観光するなら共通券を購入すべきです。
私は飫肥城の駐車場を利用したので近くにあった豫章館で券を購入しました。
1.豫章館
豫章館は飫肥藩主14代目の伊東祐帰が1869年(明治2)から住んだ屋敷です。
『豫章』はクスノキの別称。
庭の隅に大きなクスノキがあったことから名付けられました。
2.旧伊東祐正家住宅、小村記念館
伊東祐正は江戸時代前期の武士です。
江戸時代の初めは松岡八郎左衛門、江戸時代末には川崎宮内が居住していたことが絵図によって判明している。いずれも上級家臣である。明治以降は、藩主であった伊東家の分家が住んだ。
日南市教育委員会 旧伊東祐正家住宅の案内板より
旧伊東祐正家住宅の敷地には小村記念館が建っています。
これは飫肥出身の外交官・小村寿太郎を紹介する資料館です。
小村寿太郎に関しては後日別記事で紹介します。
3.飫肥城跡
写真は松尾の丸にある江戸時代初期の武家屋敷を再現したものです。
当時の上級武士の生活を感じることが出来ます。
飫肥城歴史資料館。
飫肥藩ゆかりの文化遺産が展示されています。
鎧や刀、古文書などが並んでいました。
4.小村寿太郎の生家
元々は後述する『8.小村寿太郎誕生の地』に生家はありました。
1921年(大正10)に現在の場所に移築され、それから大きな改修は行っていないそうです。
5.旧伊東伝左衛門家
伊東伝左衛門家は、享保六年(一七二一)に家老伊東祐従の次男祐允が分家したのがはじまり…(後略)
伊東伝左衛門家 案内板より
19世紀初めに建築された由緒ある武家屋敷です。
6.旧藩校・振徳堂
飫肥藩主13代目の伊東祐相によって1831年(天保2)に開かれた藩校です。
名前の由来は孟子の『又従而振徳之』という言葉から取られています。
振徳堂から小倉処平や小村寿太郎が輩出されています。
小倉処平について
小倉処平は飫肥藩出身の武士で藩命を受け京都へ向かい外交の任を受け持っていました。飫肥に戻ると振徳堂で生徒に読み書きを教え、寮舎長に選ばれています。
明治に入ると小村寿太郎らを引き連れ長崎へ留学。その後、政府の命令でイギリス、フランスに渡り政治、経済学を修めています。1873年(明治6)、明治六年政変で西郷隆盛や板垣退助、江藤新平らが下野すると小倉処平は急遽帰国します。
翌年に起きた佐賀の乱で新政府軍に敗北した江藤新平は小倉処平を頼っています。このとき処平は江藤新平を土佐(高知)に逃がし禁固刑になりますが、赦され大蔵省に出仕しています。
1877年(明治10)の西南戦争が起こると帰郷し薩摩軍に加わります。和田越えの戦い(宮崎県延岡市)で小倉処平は奮戦するも銃撃を受け負傷し高畑山の山中で自刃しました。享年32。
7.旧高橋源次郎家
飫肥の実業家で貴族院議員にもなった高橋源次郎が建築した。
旧高橋源次郎家 案内板より
地元の有力者で大金持ちだった方が残したお家ということですね。
中にも入れます。
現代人からすると天井が低いためか窮屈な感じが少しありますが、当時はこれが豪邸だったのでしょう。
雰囲気はとても良いです。
8.小村寿太郎誕生の地
『4.小村寿太郎の生家』で紹介した住宅が本来あった場所です。
小村寿太郎は1855年(安政2)にここで生まれました。
小村寿太郎の父・寛は飫肥商社の社長でしたが、経営を巡る裁判により破産してしまいます。
この土地は後述する山本猪平が購入。後に寄付され記念碑が建てられました。
記念碑の刻字は日本海海戦で有名な東郷平八郎の揮毫です。
写真では遠くて読めませんが『小村壽太郎候誕生之地 伯爵 東郷平八郎』と書かれています。
9.旧山本猪平家
1907年(明治40)に実業家・山本猪平が建てた商家の本宅です。
建築された当時と殆ど変わらずに残っているそうです。
すぐそこに小村寿太郎誕生の地の記念碑が見えます。
山本家には、『この建物は小村寿太郎が飫肥に帰って来た時のために建てた。』という言い伝えが残されている。
旧 山本猪平家 案内板より
10.鯉の遊泳地
飫肥と鯉に深い繋がりがあるのかと思い調べましたが、そういうわけではなさそうです。
雰囲気がいいですね。きれいな鯉が泳いでいると。立ち止まって眺めてしまいます。
終わりに
以上が九州の小京都・飫肥でした。
隅々まで周り切ることは出来ませんでしたが、概ね満足です。
おしまい!