田原坂公園 弾痕の残る家の資料館より
新八ハ、大久保利通ニ亞クノ人傑ナリ。是レ吾人一己ノ言ニアラズ。勝海舟翁、亦之ヲ言フ。
西南戦記 西南戦史 第九編 村田新八小傳より
村田新八は幕末から明治初期に活躍した薩摩藩出身の政治家です。
1877年(明治10年)に起きた西南戦争(薩軍vs明治政府軍)で西郷隆盛率いる薩軍・第二大隊大隊長として奮戦するも次第に追い詰められ、鹿児島の城山で西郷や桐野利秋、別府晋介らと共に命を落とします。
今回は村田新八誕生之地と南洲墓地にある彼の墓に訪問してきました。
どの様な人生を送った人物なのか【西郷と大久保 二人に愛された男 村田新八】を参考にしてその歴史を振り返っていきます。
村田新八誕生之地について
鹿児島市加治屋町に建立された村田新八誕生之地の碑。
村田新八は1836年(天保7年)に鹿児島の城下町で生まれました。父は高橋八郎といいます。
【西郷と大久保 二人に愛された男 村田新八】には誕生の地は諸説(四説)あってどれが真実であるかはっきりしないと書かれています。
村田新八の人生
20代前半で西郷隆盛や大久保利通などが結成した精忠組に加盟し、尊皇攘夷を掲げ様々な活動。
1862年、新八27歳のとき配流処分を受け喜界島へ。このとき西郷隆盛も同じ罪で沖永良部島に流されています。
島流しの原因は国父・島津久光の逆鱗に触れたためです。詳しい説明は長くなるので割愛しますが、ざっくり説明すると『待機指示が出ていたのにも関わらず勝手に動いた。』からです。
約2年後に罪を許され、藩命により西郷と共に上京し禁門の変に従軍。その後、薩長同盟が結ばれ討幕運動が強まり戊辰戦争へと発展していきます。
村田新八は西郷隆盛と共に日本を揺るがす大事に関わっていきました。
明治政府が成立すると村田新八は宮内大丞となり天皇の傍に仕えました。
1871年(明治4年)、海外視察(岩倉使節団)の話が持ち上がると興味を示し随行します。
暫くして帰国命令が出ますが、まだまだ海外で学びたいことがあったのか、新八は宮内大丞の辞職と自費滞在を政府に願い出て、そこから約1年間ヨーロッパでの留学生活を満喫したようです。
此節之経歴寸益を覚へす、唯尊ふに、二年の歳月を費やす而巳、可悦之甚敷く、国を去て互已ニ二十四ヶ月を過ぬらん歟、呵々、抱腹、小児のことし之他なし、麒絶へ、矢尽、粮米なし、大笑
西郷と大久保 二人に愛された男 村田新八 99頁より
日本を去って互いに24ヶ月を過ぎてしまったか。
このように腹を抱えて笑うのは、この上なく子供のようだ。
馬なく、矢が尽き、兵糧なし!(笑)
あと訳はかなり適当です。
めっちゃ硬い文章の中の『呵々、抱腹』とか『大笑』に彼の人柄がにじみ出ているような気がします。
この手紙を読んでなんだか親しみを感じました。
新八が日本に帰国したとき、西郷隆盛は明治政府にいませんでした。明治六年政変(征韓論を巡る論争)で参議を辞職し下野していたのです。
まずは新八は政府側の意見を聞き、その後西郷の意見を伺うため鹿児島へ向かいます。そして『西郷と離るべからざる』という結論に。
篠原国幹や桐野利秋らと共に私学校を立ち上げ元士族たちの教育と統制に力を入れました。
1877年(明治10年)。
元士族たちの新政府に対する不満が爆発し西南戦争に発展してしまいます。
終わりに
村田新八は西南戦争で二番大隊大隊長として奮戦。しかし多勢に無勢、次第に追い詰められていきます。
西郷隆盛率いる薩軍は鹿児島から出兵し熊本城を包囲、そして撤退。
熊本人吉を経由して宮崎に入り北上、延岡まで退却。
そこから南下し鹿児島の城山に立て籠もり、終わりを迎えます。
明治政府軍に包囲された城山から下山し岩崎谷に向かう薩軍。行軍中に西郷隆盛が銃弾を受けたため別府晋介が介錯します。
西郷の死を見届けた新八たちは岩崎谷の堡塁で最後の戦いを繰り広げました。
おしまい!