そして、大名同士の合戦に参加することもありました。
瀬戸内海は侵攻、輸送ルートとして攻守ともに重要なエリアでしたので、押さえておかなければ合戦を有利に運ぶことが出来ません。
ですから村上氏は協力する大名を守るため海上から敵を妨害し海の自由を奪いました。
さて、今回は村上水軍博物館の庭で私たちを出迎えてくれる村上氏当主・村上武吉について紹介します。
博物館内を紹介したいところですが、重要な部分は写真撮影禁止でした。大切な史料が保管されていのですから当然だよね。
信長の野望という歴史シミュレーションゲームがあるんですけど、村上武吉を見つけると絶対家臣にしていました。
政治以外が平均より高くて水軍適正Sなのが魅力だったんだろうな。
当時は『ぶきち』って読んでました。(本当は『たけよし』ね!)
村上水軍博物館へのアクセス
しまなみ海道で向かうことになるのですが、本州方面からと四国方面からで高速出口が異なります。
四国方面から:大島南ICからおよそ10kmです。
何れもICを下りて宮窪方面へ進み、突き当りを右に曲がってしばらくすると到着します。
村上武吉について
村上武吉は1533年(天文2年)に村上義忠の子として生を受けました。
武吉が幼いときに父が亡くなり、能島村上氏当主の村上義雅が早世しています。
ここで家督争いが繰り広げられます。
村上義雅の息子である義益と武吉の戦いです。
本人らの戦いというより若年の二人を擁立する人物らの権力闘争と言った方がよいかもしれません。
前当主の息子が継ぐのが道理と考える人が多く義益派が完全優勢でした。
武吉を支持した村上隆重(武吉の叔父)は勝ち目がないと悟り、武吉の安全を考慮して肥後の菊池氏に匿ってもらいます。
村上義益が当主になると中国地方で力を持っていた大内氏が瀬戸内海の島々に攻撃を仕掛け始めます。
武吉と村上隆重はその流れに従い村上義益を攻め追い出すことに成功しています。
どさくさに紛れて奪取したというよりも、大内氏が武吉派を支援したのだと思われます。
こうして村上武吉は能島村上氏の当主になりました。
厳島の戦い
1551年、大内氏の重臣である陶晴賢が謀叛を起こします。これを大寧寺の変といいます。
大寧寺の変により北九州、中国地方に動揺が走ります。
能島村上氏は上関(現山口県上関町)に関所を構え、通行料の徴収を行っていました。しかし陶晴賢の船が関所を無視し無断で通り過ぎる事件が発生します。
武吉としては強大な相手を敵に回したくはなかったでしょう。でも抵抗しなければ村上水軍の存在意義を失ってしまうのです。武吉自ら先頭にたち陶晴賢と一戦を交えます。
この頃に武吉は来島を縄張りとする村上通康の娘と結婚し1553年に長男・村上元吉をもうけていいます。
1555年、厳島の戦いが起きます。
大大名の大内軍を束ねる陶晴賢とまだ中規模勢力だった毛利元就の戦いです。結果は陶晴賢の自刃、毛利元就の勝利です。
この戦いに武吉が参加していたかどうかは不明です。村上三水軍のうち来島村上氏は間違いなく参加していたと言われています。
いずれにせよ厳島の戦いのあと村上氏は毛利氏に協力的な立場を取り、じゃんじゃん海の通行料を徴収することで最盛期を迎えました。
武吉、ピンチ?!
村上武吉は誰にも仕えず、自家の繁栄と存続を最優先に考えていました。
大内氏が衰退したのちに力を付けた安芸の毛利氏と豊後の大友氏。
この両者に挟まれた武吉は常に有利な立場を取り続けようとしますが…。
のらりくらりとした態度にブチ切れたのは毛利氏。
毛利元就は三兄弟のひとり・小早川隆景が能島に向けて兵を進めます。
また因島村上氏、来島村上氏も毛利氏の味方をしていましたので、能島攻略に従っています。
毛利軍は能島を包囲し輸送ルートを遮断、武吉に強烈な圧力をかけました。
さすがの武吉もこれには参ったようで降参しています。
因島・来島村上氏が両者の間を取り持ったのか、若しくは武吉が毛利氏に激しく謝罪したのかどうかはわかりませんが、その後武吉と毛利氏の関係は良くなっています。
木津川口の戦いについて
木津川口の戦いは毛利氏と織田氏の間で起きた合戦です。
1576年と1578年の二度に亘って争われたのでそれぞれ第一次木津川口の戦い、第二次木津川口の戦いと呼ばれています。
第一次木津川口
1576年、織田軍に攻められていた石山本願寺が毛利氏に援助を求めました。
毛利氏は水軍を引き連れて大阪湾で織田水軍の九鬼嘉隆と戦います。
結果は毛利水軍の圧勝。無事、石山本願寺に物資を輸送しました。
この戦いに村上武吉の息子・元吉が参戦しています。
第二次木津川口
合戦が起こったきっかけは第一次と同じです。
信長、及び九鬼水軍が本気を出します。
勢州之 九鬼右馬允に被仰付大船六艘作立並瀧川左近 大船一艘是は白舟に拵へ
信長公記 九鬼大船之事より引用
伊勢国の九鬼嘉隆に6隻の大船を作るよう命じた。滝川一益、大船を1隻拵えさせた。これは白い舟だった。
このとき九鬼嘉隆は鉄甲船を造ったとされていますが、実際どのような船だったのかはわかっていないようです。
毛利水軍が矢や鉄砲で攻撃してもびくともしなかったという描写があるのでかなり堅硬な船だったと予想出来ます。
結果は毛利水軍の敗北撤退、織田軍の勝利で大阪湾の制海権を獲得。
第一次では参戦しなかった武吉ですが、第二次では出陣し敗北後、淡路島に退却しています。
信長、秀吉の勧誘
瀬戸内海を牛耳る村上水軍を傘下に入れれば中国地方の毛利氏の攻略が容易くなります。
織田信長に命じられた羽柴秀吉は村上三水軍の勧誘を行いました。これに応じたのが来島村上氏当主の来島通総です。
ネタバレになってしまいますが、村上三水軍の中で大名家として存続したのは来島村上氏だけです。しかも明治維新まで続いています。
村上武吉は毛利氏の味方に付き来島を攻め占領しています。
1582年、息子の元吉に家督を譲りました。
本能寺の変で織田信長が横死し羽柴秀吉の時代がやって来ますが、武吉は秀吉が嫌いだったのか、基本逆らいました。
秀吉が許すわけもなく、命こそは奪われなかったけど、かつてのような自由は与えられませんでした。
海賊停止令
1588年に発布された刀狩りと同時に海賊停止令(海賊法度)が出されます。
定
一、諸国於海上賊船之儀、堅被成御停止之処、今後備後伊予両国之間、伊津喜島にて盗舩仕之族在之由聞食、曲事ニ思食事、
一、国々浦々船頭・猟師、いつれも舟つかひ候もの、其所之地頭代官として速相改、向後聊以海賊仕ましき由、誓紙申付連判をさせ其国主取あつめ可上申事、
一、自今以後、給人・領主致由断、海賊之輩於在之者被加御成敗、曲事之在所知行以下、末代可被召上事、
右条々、堅可申付、若違背之族在之者、忽可被處罪科者也、
天正十六年七月八日
『海賊行為を取り締まったり、船を仕事で使う人々に海賊行為をしないように誓紙に連判させたり、その土地で海賊行為があったら領主を裁く。』と言ったことが書かれています。
能島村上氏は海賊停止令に違反したとして筑前の加布里に流されてしまいました。
文禄・慶長の役
1592年から始まる文禄・慶長の役で武吉の息子たち(村上元吉、景親)が毛利氏に従い朝鮮に渡り活躍しています。
ちなみに来島村上氏の来島通総と得居通幸がこの戦いで戦死し大打撃を受けました。
このころ、武吉は筑前加布里から長門大津の山中に移動させられています。
関ヶ原の戦い
1598年、豊臣秀吉が亡くなると武吉は安芸の竹原・鎮海山城に移ります。
関ヶ原の戦いで毛利氏(西軍)についた能島村上氏は当主の元吉が参戦。
伊予国の領地を狙った毛利氏は松前城を攻めますが、三津浜で夜襲にあい壊滅してしまいます。
その際に村上元吉が戦死しています。
元吉の弟である村上景親も参戦し別の戦地で活躍するも関ヶ原で西軍が敗走してしまったため、活躍が無駄になってしまいました。
武吉の最後
関ヶ原の戦いで大幅に領地を減らされた毛利氏に従う武吉・景親父子。
二人は周防の大島に移住、武吉は1604年に72歳で亡くなりました。
後年、心の拠り所であった海から離されたりしましたが、瀬戸内海を見渡せる土地で生涯を閉じることが出来たのは救いだったかもしれません。
景親はその6年後、53歳で亡くなっています。
子孫は毛利氏の家臣として存続しました。
瀬戸内海沿岸には村上氏の多くの子孫が今も尚いらっしゃるようです。
終わりに
和田竜さんの長編小説『村上海賊の娘』の石碑です。
まだ読んだことがないのでこれを機に購入しようかと思っています。
おしまい!