上杉謙信の居城だった春日山城に登城してきた!おまけで御家騒動・御館の乱について【新潟の旅】

春日山城

新潟県上越市にある春日山城跡は春日山(標高189m)に築かれた難攻不落の山城です。

其名の由來は文明年間越後の守護上杉房定が此山麓に春日神社を南都から分靈したのに起因し、山容は大鵬の翼を張つた形に似、頂上に八朶の峯があるが故に一名を八ヶ峯と云ひ、又八を同音蜂の字に替へて蜂ヶ峯とも呼び、更に又山頂が兜の鉢に髣髴たりと云ふ次第で鉢ヶ峯とも言つて居る。

新潟県史蹟名勝天然紀念物調査報告 第3輯 五.春日山城址より

その名の由来は文明年間に越後の守護・上杉房定がこの山の麓に春日神社を奈良から分霊したのを起因とし、山の姿は大鵬が翼を広げた形に似ていて、頂上に蓮の花のような八つの峯がある故に八ヶ峯と云い、又『八』を同音『蜂』の字に替えて蜂ヶ峯とも呼び、更に山頂が兜の鉢によく似ているため鉢ヶ峯とも言われている。

 

春日山城

明治廿八年春日村長の書上には『本社創立は不詳なれども神璽奉納筐筪の裏書によりて天德二年の勸請たること明なり境内地はもと蜂ヶ嶺の上にあり古來社名によりて又春日山と稱す、寛治中鎌倉權五郎景政源賴義の命に依り此地に砦を設く卽蜂ヶ嶺の砦又は春日山の砦と稱す、』

中頸城郡誌 第四巻 春日神社より

明治二十八年、春日村長の書には『本社創立は不詳だけれど神璽奉納筐筪の裏に天徳二年の勧請であること明らかなり、境内地はもと蜂ヶ嶺の上にあり古来社名により春日山と称する、寛治中、鎌倉景政が源頼義の命令によりこの地に砦を築く、蜂ヶ嶺の砦、又は春日山の砦と称する。』

春日村の村長の説が正しければ寛治年間(1087~1094年)に鎌倉景政が春日山に築いた砦が春日山城の前身ということになります。

他に上杉氏が文明年間(1469~1486年)に築いたという説もあるようです。

 

春日山城

登城当日は生憎の雨…。

ぬかるむ登山道にあくせくしつつも写真を撮りながら本丸まで登ったのですが、帰宅してから写真を確認するとブレブレな画像ばかりで酷い有様でした。

再訪する機会に恵まれれば、次はしっかりと春日山城の景色を捉えたいと存じております。それに合わせて上杉謙信の人生について詳しく紹介するつもりです。

 

春日山城へのアクセス

富山城

北陸自動車道・上越ICを下りて直ぐの二又を右方向(富山・長岡方面)に進み国道18号へ。

青看板に『春日山城跡』と出てくるのでそれに従い進みましょう。国道18号を下りたら左車線に入り謙信公大通を突き当りまで行きます。

あとは案内板や青看板に従えば到着します。

公共交通機関を使うなら春日山駅が最寄りの駅です。徒歩だとちょっと遠いのでタクシーを利用したほうがよいかもしれません。

 

御館の乱について

春日山城

春日山城から少し離れた場所にある御館公園。

ここは関東から追われて上杉謙信を頼った関東管領の上杉憲政が住んでいた場所で、現在は公園になっています。

1578年に上杉謙信が死去すると御館の乱というお家騒動が勃発します。

上杉謙信は嗣子に恵まれなかったため養子をとりました。上杉謙信の養子である長尾政景の次男・上杉景勝北条氏康の七男・上杉景虎です。

上杉景勝は謙信が死亡するとすぐに春日山城の本丸を抑え、武器や金品を確保し、内外に自分が上杉謙信の後継者と宣言します。そして三の丸の上杉景虎に攻撃を仕掛けました。

一方、先手を取られた上杉景虎は春日山城から退去し御館に立てこもります。上杉景虎の兄にあたる後北条氏当主・北条氏政は弟のピンチを救うべく武田勝頼に援軍を依頼し、後北条氏も越後へ軍を進めました。

ところが上杉景勝は武田勝頼に賄賂を渡し懐柔。武田軍は越後に軍を置き中立の立場から両者の調停を試み成功させます。

しかし同時期に徳川家康が武田領に侵攻したため、武田勝頼は越後に構っている余裕が無くなり兵を少しだけ残して退却してしまいます。武田氏のクッションが無くなった上杉家中は再び険悪ムードになります。

その後、後北条氏の軍勢が上杉景勝を攻めますが、景勝はよく守りました。

外部勢力を味方に取り入れた景勝は降雪によって勢いが無くなった後北条氏の隙を突き景虎がいる御館に一斉攻撃を仕掛けます。

関東管領で上杉謙信の養父である上杉憲政が景虎の息子を連れて和議交渉しようと試みますが、道中で二人とも切り殺されてしまいます。

そして御館は落城します。

景虎はなんとか脱出しますが迎え入れてくれるはずの味方が謀反を起こし、追い詰められた景虎は自害してしまいました。

景勝は敵を粛正し御館の乱は幕を閉じます。

 

終わりに

御館の乱により上杉氏の国力は著しく低下、織田信長の侵攻によって跡を継いだ上杉景勝はとても苦しい立場に置かれることになります。

本能寺の変で信長が横死した後の豊臣政権では五大老として活躍し、会津藩に移りました。ところが関ヶ原の戦いで西軍の味方に付いたため徳川家康の怒りを買い米沢藩に減封処分されます。

こうして景勝は米沢藩初代藩主となり、明治期の廃藩置県まで上杉氏が米沢の地を治めました。

景勝が会津に移封すると堀秀治・忠俊父子が春日山城に入城しています。しかし要害の城は時代に合わないと新たに福島城を築城し、春日山城は廃城となります。

おしまい!

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