広島城、毛利輝元の築城から原爆で倒壊するまでを簡単に紹介する【広島の旅】

広島城

広島城は冠山を源流とする太田川の三角州に建てられた平城です。名古屋城、岡山城に並び日本三大平城として知られています。

築城者は三本の矢で有名な毛利元就の孫、毛利輝元。輝元は豊臣秀吉の大阪城や聚楽第を参考にして広島城を築城しました。1589年に着工、完成は1599年です。

広島の名は毛利輝元に名付けられたといわれています。

・太田川河口の幾つかの三角州の中で広い島に城を建てたから。
・毛利氏の先祖と伝わる大江元と家臣の福元長から取った。

などの説があります。前者は納得できますが、後者はいまいちピンとこないです。祖先の大江広元はわかりますけど福島元長って誰ですか?って感じです。

それでは広島城の様子を紹介します。

 

広島城へのアクセス

JR新白島駅から歩いて10分ちょっとで着きます。詳しくは書きませんが広島駅からバスを利用していく方法もあります。

自動車で行くなら広島市中央駐車場が近くて便利です。でもイベント開催日などは混雑するかもしれません。

 

広島城の風景と歴史

広島城

毛利輝元は1599年に広島城を完成させ居城とします。しかし1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康に敗北、中国地方を殆ど掌握していた毛利氏は大減封を受け周防・長門の2ヵ国のみの領地になってしまいます。

関ヶ原の戦いは東軍と西軍に分かれて戦いました。東軍の総大将は徳川家康。西軍の総大将は石田三成でもなく豊臣秀頼でもなく毛利輝元でした。

ただし輝元は大阪城にいたので関ヶ原に参陣していません。

 

広島城

その後、広島城にやってきたのは福島正則です。

福島正則は豊臣秀吉の叔母の子供だったため幼い頃から小姓として秀吉に仕えました。豊臣政権で順調に出世していき尾張国清洲24万石を与えられます。関ヶ原の戦いでは東軍に味方します。

いちのまる
いちのまる

ん?秀吉の子飼い武将なのに家康に付くの?

という疑問が湧きますね。ここら辺はちょっと複雑です。

・関ヶ原の戦いはその時点では豊臣政権の内輪揉めに過ぎなかった。
・実質、西軍を率いた石田三成とめちゃくちゃ仲が悪かった。

まさか数年後に家康が豊臣政権をぶっ壊すことになるとは思っていなかったのでしょう。

 

広島城

福島正則は豊臣政権と江戸幕府に挟まれながらもどうにか立ち回ります。

大阪の陣では豊臣秀頼に味方するよう頼まれますがこれを拒否。幕府も戦闘中裏切られるのを恐れたのか江戸留守居役を命じます。そして豊臣政権は瓦解します。

1619年、洪水の被害にあったため広島城の修復を行います。幕府の許可が下りていなかったため咎められます。またその際に『指示された破却命令に従わなかった。』『無断修復の罪で人質を出せといわれているにもかかわらず遅らせた。』ため福島正則は改易になってしまいます。

江戸幕府、もしくは本多正純の陰謀だという説があります。

 

広島城

福島正則の改易後に広島城へ入城したのは浅野長晟。

長晟は豊臣政権の五奉行筆頭であった浅野長政の次男です。

これ以降、明治に至る250年間広島は浅野氏によって治められることになります。

 

広島城

明治政府により廃藩置県が命じられると広島県が発足し広島城本丸に県庁舎が設立されます。

その後、軍の施設が本丸に設置されると三の丸に移動、最終的に県庁舎は場外に移動します。多くの軍施設が城内に建てられたことでそれまでの建築物が多く取り壊されてしまいました。

1894年(明治27年)、日清戦争が始まると城内に広島大本営が設置されます。広島が大本営に選ばれた理由は前線が近い、宇品港と山陽鉄道の開通により軍事輸送が容易になったからです。

上の写真が広島大本営跡です。

 

広島城

1926年(大正15年)に大本営跡が史跡指定。

1931年(昭和6年)に天守閣が国宝に指定されました。

そして太平洋戦争末期…。

 

広島城

1945年(昭和20)8月6日午前8時15分。

広島上空に原子爆弾が投下。

広島城は強烈な爆風により5層天守の下層がバランスを崩します。上部3層の形を保ちながら崩れ去っていったとされています。

写真は原爆投下後の中国軍官区司令部・防空作戦室。
広島城内にあります。

 

終わりに

広島城

爆心地から910m、被ばくしたクロガネモチの樹。

広島は大昔から近代まで歴史の魅力に溢れた土地です。

いちのまる
いちのまる

今回は日帰り(大分から)だったので広島城と原爆ドームしか行けませんでした。次はせめて1泊してもう少し色々周ってみたいな。

おしまい!

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