浜田城は1620年(元和6)に築城が開始され、3年後の1623年(元和9)に完成しました。
北は松原浦、西と南に浜田川、東には浅井川、海と河に囲まれた標高67mの丘陵頂上部に築かれています。
亀山城という別称もあります。
浜田城が築かれた丘陵は古来より『鴨山』或いは『神山』などと呼ばれていましたが、築城する際に『亀山』と改称したとのこと。
亀は長寿や強固といった良い縁起を持っているので城にはぴったりな名前ですね。
浜田城へのアクセス
JR山陰本線・浜田駅から周布方面行きのバスに乗り商工会議所前で降りれば徒歩5分です。
駅から徒歩でもいけますが20分以上かかります。
自動車でのアクセスはどの方面から向かうかによって大きく変わります。
山陰自動車道、浜田自動車道、国道9号線、様々なルートがあります。カーナビかナビアプリを使いましょう!
築城者の古田重治について
浜田城の築城者は古田重治という人物です。
新井白石の藩翰譜に古田氏について書いてあるので一部引用します。
兵部少輔藤原重勝は(一説に信勝)吉左衛門尉某が嫡子なり、吉左衛門尉、羽柴殿の侍大將して播磨の國三木の城を攻て討死す、二人の男子あり嫡子は兵部少輔重勝、二男は大膳亮重治といふ、
藩翰譜 第十二 下 古田より
二男の大膳亮重治が古田重治。
重治の父は羽柴秀吉軍の侍大将で播磨国の三木城を攻めている最中に戦死したようです。
兄の重勝も秀吉に仕え伊勢国の松坂城を与えられました。
秀吉没後に起きた関ヶ原の戦いでは徳川方に付き松坂城に籠城、肥前国の鍋島勝茂に攻撃されたものの見事守り抜いています。
同じ十一年重勝四十七歳にして卒す、息男僅に三歳なりしかば、舎弟大膳亮重治(一説に重勝)に兄が所領賜て兵部少輔になさる、重治畏り承て、兄が孤子の候なる、彼が成人に及ばん頃かの父が官なれば、
彼にこそ兵部少輔をば望ませ侍るべきにて候へしと辭し申す、大御所聞召し、あつはれ今の世には類ひ少きなれど感じ給ふ事大方ならず、大坂前後の戰に随ひ首六十一切つて獻る、元和五年の秋石見の國濱田の城賜て移る、(五万四千石餘といふ)藩翰譜 第十二 下 古田より
息子がまだ3歳だったため弟の重治が重勝の後継に。
重治は『一先ず跡を継ぐけれど、兄者の息子が大きくなったら後継させ彼に仕えるべき。』と言いました。
徳川家康はそれを聞き『あっぱれ!今の世の中では珍しい。』と感心。
大阪の陣では首を61斬って奉じています。
1619年(元和5年)の秋、石見国の浜田城を拝領され移りました。
こんな感じの意味だと思う。多分。
その後、重治は退き重勝の息子である重恒に家督を譲りました。
しかし、江戸の藩邸で古田騒動と呼ばれる事件を起こし改易になってしまいます。
藩翰譜では古田騒動について以下の様なことが記されています。
その結果、家老数人を誅殺される。
幾程なくして重恒が亡くなる。自害だったとも云われている。
跡継ぎのない古田氏は改易になった。
その後の城主
古田氏の後は譜代や親藩が浜田城主に就いています。
・松井松平氏5代(1649~1759)
・本多氏3代(1759~1769)
・松井松平氏4代(1769~1836)
・越智松平氏4代(1836~1866)
ちなみに本多氏は徳川家康の重臣・本多忠勝の子孫です。
幕府に近しい大名を浜田城に置くことで西国の外様大名を牽制しようとしたのです。
ところが…。
浜田城の最後
1866年(慶応2年)、江戸幕府vs長州藩の戦い『第二次長州征伐』が発生。
江戸幕府の没落のきっかけを作った歴史的に重要な戦争ですが、発生した理由を書いているとキリがないので割愛!
浜田城主の松平武聰は親藩ですので、当然幕府の一員として戦います。
石州口の戦いで大村益次郎率いる長州軍と争うも劣勢に。
病に臥していた武聰を家臣たちが密に退城させます。
その後は家臣らはいつかの再興を目指して浜田城に火を放ち退却。
こうして浜田城は廃城となりました。
終わりに
以上が浜田城の歴史でした。
浜田城
石見國は、山多く、岩骨が海にちらばり、岩根に白波がたぎっている。
石見人はよく自然に耐え、頼るべきは、おのれの剛毅と質朴と、たがいに対する信のみという暮らしをつづけてきた。
石見人は誇りたかく、その誇るべき根拠は、ただ石見人であることなのである。
東に水田のゆたかな出雲があり、南に商人と貨財がゆきかう山陽道があり、西方には長門・周防があって、古来策謀がそだち、大勢力の成立する地だった。
石見はそれらにかこまれ、ある者は山を耕やし、ある者は砂鉄や銀を採り、ある者は荒海に漕ぎ出して漁をして、いつの世も倦むことがなかった。
浜田の地に城と城下がつくられたのは、江戸初期であった。幕府は、この城をもって、毛利氏という外様藩に対するいわば最前線の牙城とした。
以後、藩主は十八代を経、城は二百四十八年つづいた。幕末、西方の長州藩が革命化して、幕府の規制から離れた。
長州軍は時のいきおいを得、また火力と軍制を一新させ、各地で幕軍を破った。
ついには浜田城下に押し寄せた。浜田藩は和戦についての衆議がまとまらず、さらには二十五歳の藩主松平武聰は病臥中でもあって、曲折のすえ、みずから城を焼いてしりぞいた。明治維新に先立つ二年前の慶応二年(一八六六)のことである。
いま、城あとは苔と草木と石垣のみである。それらに積もる風霜こそ、歴史の記念碑といっていい。
司馬遼太郎
と浜田藩追懐の碑に書かれています。
大村益次郎の生涯を描いた歴史小説『花神』を書くにあたって浜田に訪れたのでしょう。
おしまい!