日本国宝5城の一つに数えられる彦根城。
滋賀県(近江国)は京都が近く東国と西国の結び目に位置していたため重要な要所として発展しました。戦国時代の覇者たちは近江の重要性を理解していたので、織田信長は丹羽長秀や羽柴秀吉、秀吉は石田三成、徳川家康は井伊直政と名実共に優れた武将をここに配置し天下を狙いました。
彦根城に訪問する機会に恵まれましたので、今回は近江と彦根の歴史と共に彦根城の風景を紹介します。
まずアクセスから!
彦根城へのアクセス
自動車なら名神高速彦根ICで下ります。
その後、国道306号線を彦根市街地方面へ直進。
京橋の交差点を右折すれば駐車場に着きます。
電車で遠方からいらっしゃる方はまず新幹線でJR米原に。
そしてJR東海道線京都で方面へ向かいJR彦根駅を目指しましょう。
そこから徒歩20分くらいで着きます。
近江国の歴史
鎌倉時代には宇多源氏の末裔である佐々木氏が近江国を本貫の地とし治めました。
その後も宇多源氏の流れを組む京極氏や六角氏が近江国を支配しています。
戦国時代には織田信長が足利義昭を連れて上洛する際に近江国で六角氏と争っています。
先代の六角定頼はとても優秀な武将だったそうです。
・家臣団を一城にまとめ結束を固めるための破城(後の一国一城令)
・将軍家を巧みに利用した外交
などの実績を残し六角氏の最盛期を築き上げました。
定頼の功績を知っていた織田信長は六角氏を侮りませんでした。争いを避けるため『足利義昭さんを連れて上洛したいので通らしてくれませんか?』と控えめに交渉します。しかし六角氏はこのまま信長を野放しにしては後々大変なことになると判断したのか通せんぼしました。
こうして1568年に観音寺城の戦いが勃発します。
この戦いは木下(豊臣)秀吉らの活躍により織田信長の勝利に終わります。
当主の六角義治は勝ち目がないと悟り甲賀へ逃亡。支城は当主の逃亡を知り1城除いて投降します。抵抗した城は蒲生郡日野町にあった日野城の蒲生賢秀(かたひで)です。
信長は蒲生賢秀の義兄、神戸具盛を単身で送り説得。そして開城します。このとき人質として送られたのが蒲生賢秀の三男、蒲生氏郷でした。
蒲生氏郷については別の機会に紹介します。
浅井、朝倉氏との熾烈な戦いを終えこれを成敗した織田信長は1579年に岐阜城から安土城に居城を移します。
そして明智光秀(坂本城)、羽柴秀吉(長浜城)、丹羽長秀(佐和山城)などの重臣たちを近江国に置きます。
本能寺の変で信長が死去し豊臣政権になると石田三成や京極高次、長束正家などの重臣が近江国を治めることになります。
彦根城について
1600年の関ヶ原の戦いで石田三成を打ち破った徳川家康は上野国(群馬県)の高崎城から徳川四天王の一人・井伊直政を近江国の佐和山城へ転封させます。
石田三成の居城だった佐和山城が気に入らなかったのか直政は居城を別の場所に移そうと計画。
しかし関ヶ原の戦いでの負傷と多忙が原因で井伊直政は1602年に亡くなってしまいます。
当初は現在の米原市に新城を築く予定でしたが、琵琶湖の湖岸にある彦根山に城が築かれることになりました。1622年に彦根城は完成しました。
井伊氏と赤備え
井伊軍はこのような赤い鎧をまとい戦いに臨んだことから『井伊の赤鬼』と呼ばれ恐れられました。
元ネタは武田信玄の家臣・飯富虎昌と山県昌景の赤備えです。甲斐武田氏に苦しめられた徳川家康は武田氏滅亡後、井伊直政の軍に甲斐の武士を組み込み赤い鎧を着せました。
家康或いは直政が赤い鎧を着るようにいったのか、はたまた甲斐の武士が『俺らは赤じゃないと嫌だ!』といったのかはわかりません。
ひこにゃんも赤備えですね。兜しかかぶっていませんが。
彦根と井伊氏
その後の井伊氏は江戸時代が終わるまで彦根を治めることになります。
井伊氏は優秀な政治家が多く数名の大老職を出しました。その中でも特に有名なのが井伊直弼ですね。以前、井伊直弼の墓所がある東京都世田谷区にある豪徳寺に訪れた際に彼について書きました。が幕末期の歴史は難しすぎて中途半端な紹介で終わってしまいました。
井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると、幕府は世の中を混乱させたという罪を着せて井伊氏の領地を10万石没収してしまいます。
これにブチ切れた井伊氏は大政奉還後、新政府側に味方。
鳥羽・伏見の戦いや戊辰戦争で明治政府とともに戦うことになります。そして井伊氏は現在まで存続しているそうです。
終わりに
滋賀県の歴史は面白い。
時間が許されるなら1週間くらい滞在してもっとマニアックな歴史スポットも周ってみたいですが、なかなかそうはいきませんね。今回、大分から高速を使って彦根に来ましたが『もう当分いいや…。』という感じです。
おしまい!