羽村市と言えば多摩川から用水路として分岐している玉川上水の起点地として有名です。場所は少し下流になりますが大学生の頃に西武線の玉川上水駅の近くに住んでいたため上流部がどのようになっているのか気になっていました。
当時は旅の趣味もなく、また交通手段(電車使えば行けるけど)がなかったため行けませんでしたが今回念願叶って訪れることが出来ました。
さて、まずは分岐点の様子と玉川上水の歴史ついて紹介します。
羽村市へのアクセス
都内からなら甲州街道(国道20号)をひたすら八王子方面に向かい大和田町四丁目を右折したら羽村市方面へ着きます。色々な行き方があるのでgoogle mapにナビしてもらいましょう。
玉川上水の起点
多摩川の一部をせき止めることによって玉川上水が誕生します。
一枚目のせき止め場の内側の様子。
そして水量を調節しつつ流れていきます。下流はかなり緩やかな流れになっていますが起点地の水流はかなり強めです。
玉川兄弟像
玉川上水の歴史についてです。
上写真のお二人は江戸時代に玉川上水の開削を指揮した人物です。兄が庄右衛門、弟は清右衛門。 どっちがどっちかはわかりませんが多分立っている方が兄でしょう。
江戸の繁栄と参勤交代で地方大名の家族や家臣が住むようになると人口の増加に拍車がかかりました。それまで使っていた上水では賄い切れないと判断した幕府は多摩川から上水を引こう考えます。その時工事請負人として玉川兄弟が活躍したというわけです。
数回失敗して私財をなげうって玉川上水を完成させたと伝わっていますが、失敗談は後に創作されたのではないかという説もあります。
牛枠(川倉水制)
コンクリートが無い時代はこれを数基連ねて川の流れを操作していました。
名の由来は二本の角を持った牛のように見えたことからだそうです。
木材で出来ているため川底の変化に強く安定した運用が出来たとのこと。
関の筏通し場
筏を使用し多摩川上流から青梅材(檜や杉)を江戸に運ぶことを生業にしている人達がいたのですが、上水に水を流すための堰に筏が通ると堰が壊れてしまいます。
すると幕府は堰通過を全面禁止にします。
当たり前ですがそれで生計を立てていた人たちは困ってしまいます。彼らは嘆願書を出し幕府はそれを受けます。その時に新しく出来た筏の通り道がココだったということです。
玉川水神社
玉川上水開削後、玉川兄弟が建立した神社です。
石の灯籠は1839年(天保10)に筏乗り達が寄進したものだそうです。
この右隣には玉川上水羽村陣屋跡という史跡があるのですが、このとき残念ながら工事中。陣屋は幕府の役所って感じかな!
玉川上水については以上です!
このあと時間があったので羽村市を散策してみました。色々な所へ行ったので長々としてしまいますが、お時間ある方は見てください。
五ノ神まいまいず井戸
羽村駅のすぐ近くにある井戸です。
『まいまいず』はカタツムリのことで、らせん状に掘られた中心に井戸があります。
なんでこんな形をしているかというと武蔵野台地の地質に関係しています。武蔵野台地には砂礫質+火山灰の層がありまして昔の技術では井戸が掘れませんでした。『掘って崩れて埒明かない!』という感じでしょうね。
そんなわけで考えたわけです。『まずは広く掘ったらいいんじゃない?』
このような背景があってまいまいず井戸が開発されたのでした。武蔵野台地にはこのような井戸が数基存在しています。
五ノ神社
まいまいず神社の近くにあります。
601年創建と伝わる神社。熊野五社大権現が祀られています。
熊野権現は自然崇拝と仏教の神仏習合でしょうか。熊野三山、熊野古道が有名ですね。
八雲神社
羽村駅から多摩川方面に向かう途中に寄った神社。
神仏習合で牛頭天王、スサノオを祭神とする祇園信仰。牛頭天王が仏教でスサノオが神道ですね。
八雲は幾重にも重なりあった雲という意味。
医王山宗禅寺
新奥多摩街道沿いにある臨済宗のお寺。
山門が立派でかっこいいです。
宗禅寺薬師堂
宗禅寺境内にある薬師堂。
1583年(天正11)に多摩川流木の一本木をもって再建され『一本木堂』と呼ばれていたと伝わっています。
一本の流木で仏像を彫ったということかな?
馬の水飲み場とお寺坂
注意して探さないと見過ごしてしまうスポット。
都道163号羽村瑞穂線沿い。近くに後述の稲荷神社、禅林寺があります。
段丘地帯で坂が急だったため馬に荷を引かせてやっとのことで登っていました。あまりにも馬が気の毒だったので湧き水を利用して水飲み場を作ってあげたそうです。
稲荷神社本殿
羽村市指定有形文化財の稲荷社。
創建年は不詳ですが、江戸時代後期の地書に『稲荷社』の文字が出てくるそうです。
祭神は宇迦之御魂神、建速須佐之男命、玉祖命。
東谷山禅林寺
東谷山禅林寺。1593年(文禄2)に創建。
本尊は如意輪観音。豊臣秀吉ゆかりの観音像、境内の天明義挙の碑(後述)、『大菩薩峠』の著者中里介山の墓があります。
中里介山(1855年~1944年)は日本の小説家です。『女遊びは構わない、それは魂を傷つけぬから。恋はいけない、魂を傷つけるから。』という名言を残しています。
天明義挙の碑
禅林寺の境内にある史跡。
天明の大飢饉(1782年~1788)時の出来事についてです。
この飢饉は悪天候、冷害そして浅間山(長野県・群馬県)、岩木山(青森県)の噴火による被害で起きました。商業経済発展で農民間の経済的格差が顕著になります。飢饉の影響で豊かな豪農は米や雑穀を買い占め売り惜しみしました。
そこで羽村の名主を中心に近郷四十ヵ村を巻き込み、狭山地方の豪農の倉などを打ち壊しました。この一揆を天明一揆または天明の打ちこわしと呼びます。後の1894年(明治27)に一揆の犠牲者9名を『義民』として称え記念碑が建てられました。
旧下田家住宅
場所を移して多摩川の対岸にある羽村市郷土博物館へ。
国指定重要有形民俗文化財に指定されている旧下田家住宅。
日本の文化に関する形(有形)ある重要なものですね。対する無形は音楽や演劇、技術などのことをいいます。この家に残っていた養蚕用具や生活用品が良い状態で保存されていたため国の指定を受けました。
赤門
もともとは埼玉県所沢市の眼科医鈴木さんちの門でした。
鈴木さんは徳川幕府に仕えていた身分の高いお医者さんだったようです。その後、中里介山の大菩薩峠記念館に移築しそこの正門になりました。
大菩薩峠記念館閉館の後、中里家からここへ寄贈され今に至ります。
旧田中家長屋門
八王子の田中さんちにあった長屋門を移築したもの。
長屋は江戸時代に大名が家臣を住まわせるために作った棟の長い建物のこと。
その一部に扉を開き門としたものを長屋門といいました。警備上都合がよかったのでしょう。
羽村神社
創建年は不詳。
御祭神は木花咲耶姫命、火産霊神、大国主命、崇徳天皇。
・木花咲耶姫命(コノハナノサクヤヒメ)
可愛らしい名前ですね。実際べっぴんさんという設定だそうです。ちなみに息子のホオリの孫が初代天皇・神武天皇です。
・火産霊神(ホムスビノカミ)
別名カグツチ。名前の通り火の神様です。イザナギとイザナミとの間に生まれました。生まれた時から炎を纏っていたためイザナミに火傷を負わせてしまいます。イザナミはこの火傷で死亡。そして…。イザナギは怒って火産霊神を殺害。滅茶苦茶な話ですねぇ~。
・大国主命(オオクニヌシ)
出雲大社の祭神です。国造り、国譲りの神様。
・崇徳天皇(ストクテンノウ)
後白河天皇との権力争い(保元の乱)に敗北して讃岐(香川県)へ流罪。もう京に戻れないとわかっていましたが、せめて自分が書いた(血液で)写経だけでも京においてもらおうと送りますが破られて送り返されます。その後、憤死したとか暗殺されたとか…。
崇徳天皇が亡くなったあと後白河天皇の周辺で謎の怪死が続きます。また京都では大火事、疫病と大混乱です。その後、武士に政権を取られ天皇家の衰退。元寇、南北朝問題、応仁の乱…。これも崇徳天皇の呪いだとか…。江戸幕府が滅び、再び天皇中心の日本になります。
呪いを恐れた明治天皇は即位するとき崇徳天皇を盛大に祀ります。そうして御霊は京へ戻り怨霊から日本の守り神として崇められるようになりました。
羽村神社からの眺め。(羽村市方面)
玉川神社
再び玉川上水起点へ戻って北の小作駅方面に向かいます。
玉川神社は1182年~1185年の間に畠山一族が信州諏訪大社から勧請しました。勧請は神仏の霊や像を寺社に迎えて祀ること。
御祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)、大山津見神(おおやまつみのみこと)。
1800年半ばに火事の被害を被ったため社の歴史はよくわかっていないそうです。
この地は西多摩小学校発足の地でもあります。1877年(明治10)のことです。『羽村の学校教育発祥地として記念されるべき場所である。』と説明板に書いてありました。ちなみに日本最初の小学校は京都府の上京第二十七番組小学校とされています。※諸説あるらしい。
妙徳山 禅福寺の山門
羽村市指定有形文化財の山門。
この山門は1462年(寛正3)に創立。寺は1368~74年の間に開山。臨済宗のお寺です。
確固たる証拠は残っていないそうですが、恐らく室町時代中期からこのまま残っているのではとされています。
建築様式は四脚門という、名の通り門の前後に2本ずつ柱を建てたものです。
龍珠山 一峰院
妙徳山禅福寺と同様臨済宗のお寺です。
1424年(応永31)に開山。鐘楼門は1819年(文政2)頃のものとされています。
当初、鐘楼門は茅葺屋根だったそうです。
三田雅楽之助平将定等の墓
上述した一峰院を開いたのが三田雅楽之助平将定。
三田氏は14世紀頃から青梅地区で勢力を広げた豪族です。
平将門の後裔と称していたそう。左端の祠に平将定が祀られていると伝わっています。
阿蘇神社
601年に創建されたと伝わる由緒ある神社。
平将門が社殿を造営、将門を討ち取った藤原秀郷がその霊を鎮めるために社殿を修復したという話があります。
阿蘇神社のシイの木
阿蘇神社境内にある椎。
藤原秀郷が平将門を討った後、ここに手植したという言い伝えが残ります。
吉祥寺跡
阿蘇神社付近をうろうろしていた時に見つけた立て看板。
昔ここに吉祥寺という寺があったそうです。
江戸時代の地誌に『境内は免税地で八間に十一間の広さで山王山吉祥寺といい、一峰院の末寺。客殿は六間に三間で東向き。二間四方の十王堂が客殿の前にあり、本尊は釈迦立身木像で近来住職がいない。』と書かれています。※一間・・・1.81818182m
精進バケ遺跡
これもたまたま通りすがりに見つけた遺跡。阿蘇神社の近くです。
遺跡は1988年(昭和63)に発掘されたもので、縄文時代中期(4500年前~3500年前)のものとされています。
発見された竪穴式住居は39軒、調理施設と思われる集石土坑が37基、貯蔵庫若しくは墓と思われる土坑が48基となかなかな規模な遺跡です。
宝篋印塔
これは道に迷っている時たまたま見つけました。
『ほうきょういんとう』と読みます。仏塔の一種です。
罪滅ぼし、長寿を願って建てる供養塔。南北朝時代の石塔でいい味を出しています。
どういう気持ちで建てられたかはわかりませんが乱世の時代、治世の時代共に人間は何かにすがりたくなるものですね。
松本神社
鎌倉時代の健久年間(1190~1199年)に伏見稲荷から分社して創建されたと伝わっています。
御祭神は豊宇気毘売神(とようけびめのみこと)、櫛御気野命(くしみけぬのみこと)、大物主神(おおものぬしのかみ)。
度、日本神話の本でも買って勉強しようかしら?
尾張家御鷹場境石杭
松本神社にあった鷹場の境を示した石の杭。
三鷹から羽村ってかなり距離あります、さすが御三家といったところでしょうか。
金刀比羅神社
小作駅のすぐ隣にある神社。
金刀比羅神社は琴平神社とも書きますね。『こんぴら』だったり『ことひら』だったり。
香川県の金刀比羅宮(琴平山が由来)が総本宮で大物主神が御祭神。もともとは山岳信仰と修験道が融合した神、金刀比羅権現を信仰するものでしたが明治の神仏分離・廃仏毀釈で金刀比羅権現は廃されてしまいました。
懐古の井戸
最後は小作駅前の井戸。
1894年(明治27)に青梅ー立川間に青梅鉄道が開通した際に掘られた井戸です。
深さ27mの深い井戸で当時の技術では大変困難な作業になったそうです。台地では水の確保が難しかったため重要な水源として長くの間使われていました。
おしまい!