岡崎城は前身は室町時代に三河国の守護代・西郷稠頼と頼嗣によって築城された龍燈山城だと伝わります。
そして頼嗣の息子である信貞の代に徳川家康の祖父・松平清康がここを奪い取りました。
家康の祖父『松平清康』
松平清康は三河松平氏の七代目当主です。世良田次郎三郎とも名乗りました。
清康が世良田を称した理由、そして家康が徳川(得川)を名乗った理由は自らの血統の良さを証明するためでした。
世良田や徳川(得川)は群馬県の豪族・清和源氏『新田氏』と関係がある名前です。
群馬出身の私としましては天下人の徳川家康が新田氏の流れ汲んでいると知って何となく誇らしいのですが、実際には『血脈では無い説』が濃厚のようです。
松平清康はかなりの名将だったようでどんどんと勢力を広げ、若くして三河を統一しました。
三河統一後さらに勢力を広げんとし尾張国の織田家に攻めこみます。
ところが織田信秀(信長の父)の弟が守る守山城を攻略している最中に家臣の勘違いで殺害されてしまいます。これを『森山(守山)崩れ』といいます。
この事件により松平家が一時衰退し、統一した三河国もバラバラになってしまいました。
幼少期の徳川家康
徳川家康の父、松平広忠も清康と同じく短命で20歳半ばで命を落としています。死因は定まっておらず病死、謀殺、一揆に巻き込まれ死亡と様々な説があります。
松平広忠の代に家康は従属していた今川氏に人質として出されます。
ところがこの時に大事件がおきます。
今川氏の下に向かう際中に家康は誘拐され織田氏に売られてしまったのです。今川氏の人質になるはずが、織田氏の人質になってしまいました。
まぁ、そこで織田信長と運命的な出会いを果たすわけですが、当時の家康は生きた心地がしなかったでしょう。
その後の家康は…。
これ以上は長くなるので『戦国の世に終止符を打った』とだけいっておきます。
ここからは岡崎城内の紹介!
産湯の井戸
家康が生まれた時、この井戸の水を汲み産湯に使用したといわれています。
えな塚
家康の胞衣(えな)を埋めた塚。
以前は本丸南にあったそうです。
胞衣とは胎児を包んでいた膜や胎盤のこと。
能楽堂
もと二の丸があった場所。
家康はこのあたりで生まれたといわれています。※城内の看板より。
二の丸御殿の井戸
平成19年の発掘で発見されたものです。
岡崎公園時計塔
定刻になると家康が踊るそうです!
本多忠勝像
生涯57回もの戦に臨みましたが、一度も傷を負わなかったと云われています。
徳川家康の家臣の中で特に人気のある武将だと思います。
もしかしたら忠勝よりも彼が愛用した槍・蜻蛉切の方が有名かな?
龍城神社(たつきじんじゃ)
御祭神は徳川家康、本多忠勝、天神地祇、護国英霊です。
岡崎公園内にあります。
徳川家康と近隣大名との歳の差についての石碑
上杉謙信は12歳
織田信長は8歳
豊臣秀吉は6歳
うむ。これは勉強になった。
信長と秀吉が2歳しか離れていないことに驚きました。
徳川家康のしかみ像
これは三方ヶ原の合戦で武田信玄に完膚なきまでに敗北した家康の苦渋の顔を表現した絵画を模した像です。
絵画は『徳川家康三方ヶ原戦役画像』と呼ばれ、無謀な戦いを挑み多くの家臣を失ってしまった家康が、自戒の念を忘れぬように描かせたと云います。
三方ヶ原の戦いと脱糞伝説
家康は三方ヶ原の戦いの前哨戦の一言坂合戦で武田軍の馬場信春、山県昌景に攻め込まれ敗走します。
その際の逸話が三河後風土記に残っています。
原書に大久保忠佐神君濱松へ御歸城の時其御馬の鞍壺に糞があるべきぞ糞をたれて迯給ひたりと罵りたるよしを記す
改正三河後風土記 遠州一言坂軍の事より
この話、最後にオチがあります。
終わりに
この日御出馬なければ迯給ふ事あるべきにあらず是等皆妄説也故に削り去りぬ。
改正三河後風土記 遠州一言坂軍の事より
私はずっと『徳川家康三方ヶ原戦役画像(しかみ像)』を脱糞した家康の姿だと思っていました。
『こんな偉人でもビビッて糞を漏らしたりするのだな。』と想像すると何だか勇気が出てきませんか?
おしまい!