17号西郷隆盛洞窟 案内板より引用
別府晋介は西南戦争の最終盤で西郷隆盛の介錯をした人物として有名です。
どんな人生を送った人物なのか?
今回、別府晋介誕生地と埋葬地の南洲墓地に行ってきました。
1934年(昭和9)6月28日に発行された【近世名将言行録】を引用しつつ別府晋介の生涯を紹介します。
別府晋介誕生地の場所
別府晋介誕生地は私有地にあります。見学の許可の必要はないと思いますが、迷惑が掛からないように見学しましょう。
やや難しい場所にあるので、google mapのナビを利用するとよいです。『別府晋介誕生地』と検索すればHITします。
駐車場はありませんでした。
別府晋介の人生
別府晋介は1847年(弘化4)に鹿児島県吉野村に生を受け、1877年(明治10)に鹿児島県の城山で亡くなりました。
別府晋介、名は景長、弘化四年、鹿兒島吉野村に生る。島津侯の世臣別府十郎の子。
近世名将言行録 第一巻 別府晋介より
先日紹介した桐野利秋は別府晋介の従兄に当たります。
幼い頃から二人の仲は良かったそうです。
両者とも西郷隆盛の死を見届けて殆ど同時期に亡くなっています。
明治戊辰、奥羽征伐に従う明治四年、近衞陸軍大尉となり、尋で少佐に陞る。五年、命により韓國に赴き、國情を視察して歸る。
六年、職を辭して國に歸り、加治木外四箇鄕の區長となり、兼て私學校のために盡力した。
近世名将言行録 第一巻 別府晋介より
明治5年、命令により韓国に赴き国情を視察して帰る。
明治6年、職を辞して国に帰り、加治木ほか四ヶ所の郷の区長となり、兼ねて私学校のために尽力した。
戊辰戦争での活躍が認められ順当に出世していきます。
明治5年の韓国視察は征韓論関連の視察です。征韓論はざっくり言うと『韓国にどう対応するか?』というものです。穏便な論から過激な論様々ありました。
彼らが所持する電信の暗号帳も押収された。それには、西郷を坊主、県令大山綱良を首長、大久保を西ノ窪、川路を川崎屋と称していた。
『桐野どんは鰹節。別府どんは花手拭いじやっど』
そのネーミングに、桐野は破顔した。
九重の雲 肥薩の天地より
これは西南戦争が発生するちょっと前のシーン。明治政府から薩摩に送られてきた密偵を拷問して暗号帳を取り上げたという場面です。
『別府どんは花手拭い』の由来は、韓国視察していた別府晋介が花色の手拭いを好んで首に巻いていたからだそうです。
明治政府内で起きた征韓論を巡る争いで敗れた西郷隆盛は参議を辞職し下野します。西郷を慕う多くの人々がこれに追随し鹿児島へ帰郷しています。これを明治六年政変といいます。
この中に桐野利秋や別府晋介がいました。
十年の役、聯合大隊長として熊本城を圍み、四月鹿兒島に歸つて更に壯丁を募り、八代に於て官軍と鬪うて負傷した。
近世名将言行録 第一巻 別府晋介より
西南戦争で別府晋介は六・七番連合大隊長として先発出兵しています。熊本城攻めでは篠原国幹、村田新八と背面から熊本城を攻撃しました。
『鹿兒島に歸つて更に壯丁を募り』
西南戦争後半になると薩軍はかなり強引な方法で徴兵を行うようになったと云われています。もしかすると別府晋介もそれに加担していたのかも知れません。
別府は八代攻めで敗北し、左足に重傷を負い人吉に退却しています。
爾來各處に轉戰し、九月二十四日、城山陷る時、西鄕隆盛傷ついて、其首を斬らん事を晋介に托す。晋介刀を揮つて之れを斬り、自ら西鄕の死を叫んで、敵彈雨下の裡に陣歿した、三十一歳。
近世名将言行録 第一巻 別府晋介より
もう一つ引用↓
西鄕隆盛ハ、曉天、諸將ト共ニ彊塲ニ立チ出デケルガ、適マ銃丸、其腰脚ニ中リ、路傍ニ倒レ、歩スルヿ能ハス。
新撰旅團ノ安村中尉、急ニ追躡シテ、殆ト之ヲ獲ントス。薩軍、之ヲ見テ、安村ヲ狙撃シテ、其腹ヲ傷ク。
薩ノ一將、別府晋介、進ミテ、隆盛ノ首ヲ斬リ、僕ヲシテ、窃ニ其首ヲ折田正助ノ門前ニ埋メシメ、身ハ鎗林彈雨ノ間ニ奮戰シ、大ニ呼テ。
曰ク『先生、已ニ死矣。…………』先生ト死ヲ共ニスル者ハ、來リテ死セヨ、』ト。竟ニ敵彈ノ下ニ斃レタリ。』
西南戦史巻五 第十九 別府晋介小傳より
新撰旅団の安村中尉、急に追いかけ、もう少しところでこれ(西郷の首)を獲ろうとする。薩軍、これを見て、安村を狙撃して、その腹を傷つける。
薩摩の将、別府晋介、進んで、隆盛の首を斬り、手下に、こっそりとその首を折田正助の家の門の辺りに埋めさせる、激しい戦場の中で奮戦し、大声で叫んだ。曰く『先生は既に死んだ。…………。先生と死を共にする者は、来て死ね、』と。
ついに敵の銃弾に倒れた。
熊本城の包囲を解いた薩軍は南下し、人吉から宮崎方面に退却。
途中、西郷隆盛は軍を解散し、残った兵士たち共に鹿児島を目指します。
奇跡的に鹿児島に辿り着いた薩軍は城山に立て籠もり最後の戦いに挑みました。
終わりに
重傷を負った西郷隆盛が『晋どん、もうここらでよか』と言い『ごめんなったもんし』と別府晋介が首を落とすシーンは余りにも有名です。
今回幾つかの書籍にあたりましたが、この逸話の原典を見つけることが出来ませんでした。
城山の戦いで降伏し生き延びた者もいたようなので、実際に上のようなやりとりを見た人がいたのかもしれません。
おしまい!