室町時代後期。
肥前国佐賀郡は少弐氏から下剋上を果たした龍造寺氏によって支配されていました。
当主の龍造寺隆信が沖田畷の戦い(1584年)で戦死すると、重臣の鍋島直茂が中心となって龍造寺家を支えます。
次第に龍造寺氏の力が衰え始めると鍋島氏が実権を握るようになりました。
江戸時代に入ると龍造寺氏が居城にしていた村中城を鍋島直茂・勝茂父子が改修、拡大します。
これが佐賀城の始まりです。
創建当時の様子が紹介されています。
内容を入力し土塁や堀はしっかりしていますが、堅城という感じはしない。
右側の出っ張っている石垣が天守台跡です。
ここに五層の天守閣がありました。
佐賀城天守跡
天守台跡にある石碑です。
草書で『佐賀城天守〇址』と刻まれています。
〇の部分は読めませんでした。
『台』か『閣』はたまた『台』の旧字『臺』なのか?
佐賀城本丸歴史館
天守台跡から眺める佐賀城本丸歴史館。
桜がキレイですね。
佐賀城本丸歴史館は10代目佐賀藩主の鍋島直正が再建した本丸御殿の一部を復元したものです。
歴史館内部では佐賀藩の歴史(主に幕末から明治初期にかけて)を学べます。
鍋島直正公の像
鍋島直正の像です。
この方は写真も残っています。
ネットで検索したら出てきますので、気になる方は調べてみて下さい。
彼の功績を簡単に紹介します。
・不治の病だった天然痘の根絶に協力。
・藩校・弘道館を充実させ藩内に優秀な人材を取り入れた。
・西洋の技術を積極的に取り入れた。
弘道館で優秀な人材を育て家臣にし、能力を見極め適材適所に配置する。
代々長崎の警護を与っていて外国に触れる機会が多かった佐賀藩は西洋技術の素晴らしさ、そして恐ろしさに早くから気付いていました。
先見の明に優れていた彼は能力ある家臣を集め、西洋の技術を研究させ自藩の武器とします。
薩長土肥という言葉があります。薩摩、長州、土佐、肥前(佐賀)のことで、明治維新はこの4つの雄藩が中心となり突き進んでいきました。
佐賀藩がこの4藩に入れたのは優秀な人材と獲得した西洋技術があったからです。
終わりに
1871年(明治4年)に鍋島直正は亡くなります。
3年後、佐賀の乱が勃発しています。
この戦いは士族(武士)と明治政府の間で行われました。
中心人物は直正が育て上げた江藤新平、島義勇です。
佐賀市が舞台となり佐賀城も戦禍に巻き込まれ大きな被害にあいました。
後日知ったので写真を撮れませんでしたが、当記事一枚目の写真(鯱の門)には生々しい銃弾の跡が残っています。
おしまい!