阿波細川氏、畿内の覇者・三好長慶の一族が本拠とした勝瑞城。
かつてはここを中心として阿波国の政治や経済、文化などが成長し城下町が繁栄しました。
築城時期や築城者は定かではありませんが、
十五世紀中頃に細川氏が守護所を土成町の秋月から勝瑞に移した…(後略)
国指定史跡 勝瑞城館跡 案内板より
とありますので、勝瑞は細川氏が移ったあたりから発展し始めたのでしょう。
細川氏が勝瑞城を築城したのか、それとも元々あった城に移り住んだのかは不明です。
それでは勝瑞城の歴史についてみていきましょう。
勝瑞城へのアクセス
藍住ICを下りて県道1号線に入ります。
3つ目の信号を右に曲がり県道14号へ。
10分程走ると左に勝瑞城跡の看板があります。(小さい看板なので注意!)
電車利用ならJR高徳線の勝瑞駅から徒歩で10分です。
阿波細川氏と勝瑞城
細川氏は室町幕府を開いた足利氏の流れを汲む名家です。
嫡流は細川京兆家と呼ばれ室町幕府の管領職に就きました。
その分家である阿波細川氏は阿波国(徳島)を本拠としました。
以下の引用文から勝瑞城が軍事的にも重要な拠点だったことがわかります。
応仁の乱では東軍の後方拠点となり、また両細川の乱では細川澄元党、次いでその子晴元党の拠点となった。
国指定史跡 勝瑞城館跡 案内板より
第34代室町幕府管領・細川晴元が重臣の三好氏に下剋上を起こされ、勝瑞城は三好氏の手に渡ります。
三好氏と勝瑞城
三好氏は清和源氏から出た小笠原氏の一族です。
天文ノ比ヲヒ細川讃岐守持隆ト云人アリ同郡勝瑞ニ在城也是則阿波ノ屋形ト號ス其家臣ニ三好筑前守元長入道海雲ト云者アリ
三好記 一.細川讃岐守殿自害之事より抜粋
天文は1532年から1555年の時期です。
細川持隆が勝瑞城に在城、その家臣に三好元長がいたと書かれています。
細川持隆は上で少し触れた管領・細川晴元の従兄弟にあたります。
三好四兄弟について
彼男子四人アリ嫡子ハ三好修理大夫長慶二男ハ三好豊前守義賢三男ハ安宅摂津守冬康四男ハ十河左衛門正一存也
三好記 一.細川讃岐守殿自害之事より抜粋
三好元長の四人の息子についての文。※五人いた説もあるようです。
・二男の三好義賢(実休)については後述。子に三好長治や十河存保がいます。
・三男の安宅冬康は淡路水軍をまとめた人物。兄の長慶に殺害されてしまいます。
・四男の十河一存は鬼十河と呼ばれた猛将。
実権を握ろうとする三好実休
豊前義賢ヲ大将ニテ諸軍勢詰来リ龍音寺ノメグリヲ人数三千余騎ニテ取巻鮫浪ヲアクル讃岐守驚給ヒ御馬逈百余人ニテ馳出給ヒケレ共敵ハ多勢味方ハ無勢ナレバ難叶先見性寺ヘ御入有テ加勢ノ體ヲ見玉ヘ共何方ヨリモ御身方申来武士モナシ無力天文廿一壬子ノ年八月十九日ニ自害有テ法名徳雲院ト号ス
三好記 一.細川讃岐守殿自害之事より抜粋
三好義賢(実休)は3000人の兵で龍音寺にいる細川持隆を包囲しました。
驚いた持隆は見性寺に逃げ込みますが、援軍が来ることなく、天文21年8月19日に自害したという内容です。
三好記に信憑性があるのかはわかりませんが、三好義賢(実休)が細川持隆を見性寺で討ち取ったことは間違いないようです。
その後、三好義賢(実休)は細川持隆の子・真之を擁立し傀儡化を狙います。
ところが1562年の久米田の戦いで義賢(実休)は戦死してしまいます。
三好氏の没落
1562年、義賢(実休)の戦死。
1563年には三好長慶の嫡男・義興が夭逝。
1564年、三好長慶が弟の安宅冬康を殺害。その後、長慶も病死。
栄華を誇った三好氏は一気に没落してしまいます。
勝瑞城の城主は細川真之でしたが、義賢(実休)の跡を継いだ三好長治に牛耳られていました。
しかし長治には国を治める器がありませんでした。
最後は1577年、細川真之が土佐国の長宗我部元親を頼り長治を討ち取ります。
長治・享年25。
勝瑞城の最後
天正一〇年(一伍八二)、土佐の長宗我部元親は十河存保の守る勝瑞城に大挙して押し寄せた。八月二八日、存保は中富川の合戦で大敗を喫し、勝瑞城に籠城したが九月二一日、讃岐へ退き、ここに勝瑞城は歴史の幕を下ろすこととなった。
国指定史跡 勝瑞城館跡 案内板より
三好長治が討ち死にした後に弟の十河存保が勝瑞城に入っています。
しかし長宗我部氏の攻撃から守り切れず勝瑞城は落城、そして廃城に。
終わりに
以上が勝瑞城の歴史でした。
豊臣政権時に蜂須賀氏が阿波国に入封し徳島城を築城。
阿波の中心地は勝瑞から徳島城下に移っていくことになります。
写真のお寺は三好氏の菩提寺・見性寺。
境内には、之長・元長・義賢・長治らの墓が並んでいる。
国指定史跡 勝瑞城館跡 案内板より
おしまい!