『赤城の山も今夜を限り…。』
国定忠治は江戸後期に現在の群馬県伊勢崎市国定町に生まれた侠客、博徒です。
国定町の養寿寺にある彼の墓には『とある御利益』があると云います。
『とある御利益』とは?そして彼はどのような人物だったのか?
国定忠治の墓へのアクセス
もの凄く説明しにくい場所にあります。
なのでgoogle mapで『養寿寺 群馬』とお調べください。
両毛線の国定駅から歩いていける距離です。
20分くらいかかりますが…。
国定忠治について
国定忠治の本名は長岡忠次郎です。
1810年に国定村(現、国定町)の豪農の家に生まれました。
忠治、二十歳頃の事。
従っていた親分が亡くなり、境百々の縄張りを譲り受けます。
その後、忠治は縄張り争いや敵討ちで殺人を犯したり、大罪とされていた関所破りなどを行い、幕府から指名手配されたと伝わります。
しばらくの間は捕まらず生き延びますが、やがて病に侵され群馬の縄張りに帰ってきました。
縄張りを子分に譲り看病されながら忠治は暮らしていました。
しかし、幕府の見回りに捕縛され江戸の伝馬町牢屋敷に監禁されてしまいます。
最後は以前に関所破りをした大戸(群馬県吾妻)に連行され磔刑に処せられました。
享年41。
何故、忠治が人気なのか?
忠治の経歴を辿るとただの犯罪者にしか見えません。
何が理由で現在まで名が知られ、人々に慕われているのか?
それは天保の大飢饉で忠治が民衆に対して起こしたとされる行動です。
当時の群馬県では役人が私腹を満たすため不正を働き民衆を酷く苦しめていました。
ただでさえ困窮極まる状態だったのに大飢饉に襲われ一帯は地獄と化しました。
ところが忠治の治めていた境百々では一人の餓死者が出なかったと云うのです。
彼は博打小屋で得た金を農民らに施し危機を乗り越えさせました。
大飢饉中に博打が出来る人は役人や大商人などお金持ちばかりでしょう。
そんな彼らから金をせしめて地域を活性化させたと伝わります。
また、敵に対しては冷酷無比な忠治ですが、堅気(一般人)には一切手を出さなかったため民衆からの人気は凄まじいものでした。
忠治が治める縄張りは他の地区より治安が良かったと云われています。
彼が長い間、幕府の追手から逃れられたのも民衆の協力があったからなのかもしれません。
終わりに
忠治の墓には『勝負運(ギャンブル運)』の御利益があるとされています。
墓石を削ってお守りにするとギャンブルに勝てるという噂が広がってしまったため、柵が設置されたようです。
忠治は博打場の主催者です。元締めはカモを見つけ搾取するのが仕事です。
自分の墓を削るような輩を忠治が私たちを勝たしてくれるでしょうか?
国定忠治は群馬の偉人の一人ですが、伊勢崎市は英雄でありヤクザな彼をどう扱っていいか困っているみたいです。
おしまい!