桐野利秋誕生地と彼の墓地へ!人斬りと呼ばれた彼の人生について【鹿児島の旅】

桐野利秋

西郷隆盛洞窟 案内板より引用

世に、桐野利秋ほど毀誉褒貶の定かならぬ人物も、また珍しい。

東郷 隆 著 九重の雲 第一章 唐芋侍より

桐野利秋が主人公の歴史小説【九重の雲】の冒頭。

毀誉褒貶と言うけれど、悪いイメージを持っている人の方が多いのではないでしょうか?

彼は初め中村半次郎と名乗り活動していました。彼は幕末の四大人斬りの一人に数えられ『人斬り半次郎』という二つ名を持っています。(詳細については後述する)

今回は【九重の雲】を引用しつつ、彼の人生に迫っていこうと思います。

桐野利秋誕生地の場所

桐野利秋

ちょっと難しい場所にあります。

google mapで『桐野利秋誕生地』と検索するとHITするのでナビしてもらいましょう。

駐車場が見当たらなかったので、路上駐車しました。

 

人斬り半次郎、桐野利秋

桐野利秋

桐野利秋ハ舊名半次郎トイヒ姓ヲ中村ト稱セリ薩州ノ人ナリ鹿児島城ノ上吉野村實方ト云フ処ニ住セリ

詩文選 諸公略伝 桐野利秋傳より

桐野利秋(中村半次郎)は1839年1月16日に鹿児島で生まれ、1877年9月24日に38歳の若さで亡くなった武士、及び軍人です。

鹿児島藩士、特に西郷隆盛の側近として幕末から明治にかけて活躍したことで有名です。快活、磊落な人柄で多くの幕末志士たちと交流を深めました。

彼が行った主な活動は↓

・京都で青蓮院宮(久邇宮朝彦親王)の警護
・水戸天狗党を偵察
・戊辰戦争での活躍(会津藩が降伏した際、桐野が会津若松城の受取役になっている。)

他にもかなり危険な仕事をこなしています。

当時は主義・思想の違いで殺し殺されの世界でした。桐野も刺客に襲われ大怪我を負っています。

人斬りと呼ばれるくらいなので要人を斬りまくったのかと思いきや、記録には残っているのは兵学者・赤松小三郎の暗殺だけでした。

もしかすると『人斬り半次郎』という二つ名は後世の創作なのかもしれません。

 

桐野、出世街道まっしぐら!

桐野利秋

會津ヲ陥ルマデ度々戰功アリテ軍監ニ命セラル平定ノ後ニ賞典禄百餘石ヲ賜リ藩ニ帰テ初メテ中村ヲ改メテ舊姓ニ復シ桐野利秋ト名乗リ尋テ大隊長トナリテ東京ニ上リ市ヶ谷ノ陣営ニ在リシカ幾クモナク陸軍少将ニ轉任シ熊本鎮臺司令長官ト成リ熊本ニ駐在スルコト一年アマリニシテ陸軍裁判長に轉シ下谷不忍池ノホトリナル舊榊原ノ邸ヲ購ヒテコノトコロニ住ヒツ子ニ閑静ヲタノシミ花美ナル道具ナドヲヨロコビ昔シニカハリテ優ナルフルマヒナリト人々モ云ヒ合ルクラヒナリキ

詩文選 諸公略伝 桐野利秋傳より

会津を陥落させるまで度々戦功があって軍監に命じられる。
平定の後に賞典禄を100石ちょっと賜り、藩に帰って初めて中村を改め旧姓に復し桐野利秋と名乗り、大隊長になって東京に上り市ヶ谷の陣営にいたが、まもなく陸軍少将に転任し熊本鎮台司令長官となり熊本に駐在すること一年あまりにして、陸軍裁判長(所長)に転じ不忍池のほとりにある旧榊原家の邸を購入しここに住む。
閑静を楽しみ華やかなものなどを悦び昔とは違って上品な振舞いになったと人々も言い合うくらいだった。

出世街道まっしぐらです。

歴史にタラレバはナンセンスですが、この後も大日本帝国の軍人として活躍し続けたなら陸軍大将、実績を重ねれば元帥陸軍大将になっていた可能性もあったでしょう。

明治後期に起きた日露戦争で英雄になった『陸の大山(巌)、海の東郷(平八郎)』。両者は薩摩出身の軍人で後に元帥に昇格しています。

彼らは西郷や桐野の背中を見て育ったと言っても過言ではありません。

大山、東郷以外にも多くの薩摩出身者が明治政府の中枢で活躍しています。

西郷隆盛の下野と私学校

桐野利秋

明治六年政変で西郷隆盛が明治政府から下野すると、桐野達もそれに従い辞職し鹿児島に帰郷しています。

彼らは鹿児島に私学校を設立。鹿児島から日本を変えようと夢を見ます。その際、桐野は開墾事業の監督に携わりました。

そして1877年(明治10年)、明治政府が鹿児島にあった弾薬を秘密裏に持ち出したことから私学校徒が暴走し火薬庫襲撃事件が発生、また西郷暗殺計画の噂が立ったことで更にヒートアップ。

これが西南戦争に発展します。

この状況を見て、桐野が立ち上がった。

『もはや区々たる議論にこだわる時は過ぎた。君側廓清(積もった悪を清めること)、政体一新のため、堂々軍鼓を鳴らしての総出兵あるのみ。ここで先生の決断を仰ごうでンなかか』と言い放った。

(中略)

人々は一斉に西郷を見た。腕を組み固く目を閉じていた彼は、ゆっくりとこう語ったという。

『もう、何も言うことはごあはん。おはんらの意見にまかせて、この身を預け申そ』

刹那、私学校の講堂は、地の底から湧き上がるような、おうおうという異様な怒号で満ちた。

(中略)

だが、講堂の片隅で桐野だけは口をへの字に結んで無言だった。少し怒ったような面付きの彼は、窓から見える黒松の巨木をいつまでも眺め続けていた。

東郷 隆 著 九重の雲 第十章 肥薩の天地より

 

桐野死す

桐野利秋

西南戦争の詳細は長くなるので書きません。

鹿児島の城山に立て籠もった薩軍と『誰一人逃さない!』と城山を完全包囲する新政府軍。

薩軍は決戦に臨むべく城山を下り岩崎口で政府軍と激闘。そして壊滅します。

西郷隆盛の最後を見届けた桐野は村田新八らと共に戦いましたが、最後は額を撃ち抜かれ戦死してしまいました。

桐野を混えて、私学校党の幹部会議が直ちに開始された。多くの本は、ここで桐野が最も過激な説を唱えたとあり後日、政府側の資料も『西南戦争は桐野の戦いであった』と書く。しかしこれは維新以来勇名鳴り響く彼を首謀者とみることによって、大西郷の叛意が乏しいことを強調する話であった。

(中略)

『薩摩血涙史』には、火薬庫襲撃の第一報を聞いた彼が、

『嗚呼、豎子(年少の者)ついに大事を誤る。真箇に千秋の恨事なり』

蜂起を悔む言葉を吐いたことが語られている。

東郷 隆 著 九重の雲 第十章 肥薩の天地より

 

終わりに

桐野利秋

もう、ほんとざっくりですが桐野利秋についてでした。

もっと彼のことについて知りたいという方はまず【歴史小説・九重の雲】をおすすめします。長編小説ですが幕末から明治の歴史が好きな方ならスラスラと読めるはず。

いちのまる
いちのまる

私はあっという間に読み終わりました。

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更に研究したい方は【桐野利秋日記】とかを読んだらいいと思います。(少々値が張る書籍なので、私はまだ読めていない…。)

おしまい!

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