現在、国宝に指定されている天守は5城。
・愛知県の犬山城
・滋賀県の彦根城
・島根県の松江城
・兵庫県の姫路城
これらを総称して『国宝5城』と呼びます。
中でも姫路城は世界遺産にも指定されている数少ない建築物です。
それでは姫路城をぐるっと観光してきましたのでその歴史と共に風景を見ていきましょう。
姫路城へのアクセスと入城料金について
電車、バス利用ならJR姫路駅北口から神姫バスに乗車して『大手門前』下車徒歩5分で着きます。
またJR姫路駅、または山陽姫路駅から徒歩でも行けます。およそ20分くらいかかります。
車なら姫路城の南側にある大手門駐車場が近くて広いので便利!
姫路城の歴史について
1333年に赤松則村が後醍醐天皇の息子・護良親王を命を受けて出陣した際、姫山に建てた砦が姫路城の前身といわれています。
このとき守備を任されたのが赤松氏の一族・小寺氏でした。
鎌倉幕府が滅び、室町時代(南北朝時代)に移行する時期ですね。
赤松氏一門・小寺氏の時代
1346年に赤松貞範(則村の次男)が本格的に築城を開始します。
その後、貞範が庄山城に本拠地を移すと再び小寺氏が城主に任じられました。
1441年の嘉吉の乱で山名氏らに赤松氏が敗北し、城主の小寺職治が討ち死にすると、山名氏が姫路城に入ります。
1458年、長禄の変での功績が認められた赤松氏は再興が許され、1467年の応仁の乱で弱体化した山名氏から播磨(姫路)を奪還します。
そして再び小寺氏が城代になります。
黒田官兵衛、秀吉に姫路城を譲る
1545年に小寺則職が御着城が移ると家臣の黒田重隆に城を任せています。
そして黒田重隆・職隆親子が御着城の支城にと姫山の地形に合わせた城郭に拡張しました。
その後、職隆の息子・黒田孝高(官兵衛)の代には織田信長の傘下に入り、羽柴秀吉と共に播磨を平定。
1580年、黒田孝高は中国攻略の足掛かりとして姫路城を秀吉に譲ります。
江戸時代の姫路城
本能寺の変の後に羽柴秀長(秀吉の弟)が入城、秀長が奈良の郡山城へ転封されると木下家定が城代になります。
1600年の関ヶ原の戦いの戦功を評価された池田輝政が入城し、江戸時代には松平、榊原、本多、酒井各氏が移り変わり城主となりました。
競売にかけられた姫路城
明治時代に発せられた廃城令で存続になるも競売に出され地元の商人に売られてしまいます。
その額なんと23円50銭!(現在の10万円くらい?)
商人の購入した理由は『姫路城の存続』のためと『城の瓦』を売るための二つ。
城の瓦は大きすぎて売り物にならなかったという逸話が残っています。
中村進一郎とマックス・フォン・ブラントの功績
城跡は広大で陸軍の陣地として利用し易かったため、姫路城も三の丸に歩兵第10連隊が設置されました。
このときにいくつかの建物が壊されてしまいましたが、悪いことだけではありませんでした。
1878年、中村進一郎(重遠)やドイツ公使のマックス・フォン・ブラントが陸軍卿の山縣有朋に姫路城修復願いを太政官に上申して欲しいと頼み込みます。
なかなか予算は下りなかったそうですが、様々な人々の援助があり大改修が行われることになりました。
国宝になった姫路城
1931年(昭和3年)、天守が旧国宝(現在の重要文化財に値する)に指定されます。
1951年(昭和26年)、文化財保護法施行後は”世界文化の見地から価値の高いもの”で”たぐいない国民の宝”として認められ国宝に指定されました。
空襲の被害を受けるも奇跡的に崩壊せず
城郭は軍事施設として利用されていたので、太平洋戦争では米軍の標的となり、全国の城郭はしばしば空襲を受けました。
例外なく姫路城も空爆の目標になりましたが、戦災により一部消失したものの焼夷弾の不発や必死の消火活動により奇跡的に残存。
焼け野原になった姫路の街からただ一人静かに佇む姫路城を見て市民たちは涙したと云います。
世界遺産に登録。日本が誇る Himeji Castle
戦後、1956年(昭和31年)に8か年計画で昭和の大改修を行いました。
平成に入り1993年(平成5年)の12月、法隆寺地域の仏教建造物とともに日本初の世界遺登録されました。
そして、現在に至ります。
おしまい!