月山富田城と尼子経久・晴久について!軍記物語から歴史をふりかえる【島根の旅】

月山富田城

島根県安来市広瀬町にある富田城跡。月山にあることから月山富田城、月山城とも呼ばれています。

戦国時代には山陰の雄・尼子氏が居城とし大内義隆や毛利元就などの強豪たちと争いました。

月山富田城は難攻不落の山城として知られています。月山は標高183.9mしかありませんが、本丸に向かう途中にある七曲がりの急坂を下から眺めれば『こりゃ、強行突破は無理だわ…。』と誰でも思うはず。

いちのまる
いちのまる

今回、本丸まで頑張って登ってきましたので尼子氏の歴史と共に月山富田城の風景を紹介します。

月山富田城へのアクセス

月山富田城

山陰道の安来ICから約20分です。ICを下りて右に曲がるとすぐ月山富田城の案内板があるのでそれに従いましょう。

山陰本線の安来駅からバスが出ています。イエローバスの観光ループという路線なのですが本数は少なそうです。

 

尼子氏統治以前

月山富田城

月山富田城の案内板に略史年表がありましたので、尼子氏登場までの歴史を引用し解説します。

保元 平治の頃 藤原景清築城すという

文治 元 一一八五 佐々木義清雲隠の守護となって富田に入城

興国 二 一三四一 塩冶高貞山名氏に追われ出雲に帰って自殺

興国 二 一三四一 塩冶氏の後は佐々木高氏代って富田を治む

正平 八 一三五二 山名時氏佐々木高氏と爭い雲隠二国を奪い富田秀貞を守護とす

天中 八 一三九一 山名満幸内野の戦に敗れ富田より鎮西に走り殺さる

天中 九 一三九二 京極高詮雲隠の守護となり尼子持久を守護代とす

文明十六 一四八四 尼子清定(経久の父)追放され塩冶掃部介之に代る

文明十八 一四八六 正月元旦経久塩冶掃部介を急襲富田城奪取(二九)

月山略史年表より

築城者とされる藤原景清は平将門を討ち取った藤原秀郷の子孫です。悪七兵衛という異名を持つ猛将。平家物語にその活躍が書かれています。

1185年の佐々木義清は出雲源氏の祖。雲隠は出雲と隠岐を合わせた言葉でしょう。承久の乱で活躍した義清は出雲と隠岐の守護となりました。佐々木氏は宇多天皇の血を引く名家です。この流れを宇多源氏といいます。

1341年、南北朝時代ですね。塩冶氏の祖先は佐々木義清。出雲、隠岐の守護になるも足利尊氏の側近・高師直に嵌められて討伐されてしまいました。

塩冶氏の後に佐々木(京極)高氏が富田城を治めるとあります。高氏より道誉の名の方が有名かもしれません。ここでは割愛しますが道誉は時代の傑物です。いずれ紹介したいな。

1352年、山名時氏が佐々木高氏から奪って云々とありますが、この時期の出雲国は不安定だったらしく守護が山名氏になったり佐々木氏になったりしています。

1391年、山名氏清、満幸が室町幕府に反旗を翻します。これを明徳の乱、或いは内野合戦といいます。結果は山名氏の敗北。

1392年、京極高詮が守護となり、尼子持久がその補佐に付きます。ここで初めて尼子氏の名前が出てきました。尼子氏は京極氏の分家。つまり元を辿れば源氏に当たるのです。

1484年、月山富田城が包囲され尼子氏は守護代の職を剥奪されてしまいます。ここには尼子清定とありますが、既に家督は経久が継いでいます。

1486年、塩冶掃部介を尼子経久が倒し富田城を奪取。末尾の(二九)は経久の年齢でしょう。

尼子の名は近江国犬上郡甲良荘尼子郷が由来。祖先の佐々木一族の誰かが近江国(滋賀県)の尼子郷を拝領した際に名乗ったそうです。
これより下で引用する雲陽軍実記陰徳太平記は当時の様子を知ることが出来る大変重要な歴史書に間違いありませんが、全てが真実というわけではありません。

 

尼子経久について

月山富田城

尼子氏が本格的に勢力を拡げ始めたのは尼子経久の代からです。

雲陽軍実記という歴史書に経久が計略を以て塩冶掃部介から月山富田城を奪い取るシーンが書かれています。

城主鹽冶掃部介も鎗堤げて暫く戰ひ、雑兵二三人切伏せ突伏せ、大童と成て防戰けれ共、餘煙城の内に霞みければ相手も見留めず、力不及本丸に登り、妻子を烟の中に刺殺し、自ら首刎て潔く煙と共に消へ玉う、依之富田の城、經久の計略を以て一夜の内に思ふ儘攻落し、多年の鬱憤を散じ、四百五十余人の首を城外に懸玉へば、其武威國中隣國迄も英々として招かざるに幕下に属する者多く成りにける、

雲陽軍実記 尼子伊予守経久切返富田城 幷笘屋千万歳之事より

月山富田城から少し離れたところに塩冶掃部介の墓があります。荒法師と呼ばれる五輪塔でこれをみだりに荒らすと祟りにあるという言い伝えが残っています。

その後、経久は従わない国人衆に攻撃を仕掛けます。雲陽軍実記では亀嵩城の三澤氏に計略を仕掛け従属させました。

 

月山富田城

この像は尼子家臣の山中鹿介幸盛の像ですが、彼の祖父である勝重が三澤氏との戦いで活躍しています。

山中勘兵衛勝重を呼寄せ、汝は智謀文才に勝たる者也、三澤を方便り、味方せよかし、若合戰に及なば汝將として機を計り見よとて、

雲陽軍実記 尼子伊予守経久切返富田城 幷笘屋千万歳之事より

勝重を三澤氏に送り込み2年間かけて信用させ、尼子と合戦になったら将軍となり三澤の兵を月山富田城まで誘導し奇襲を仕掛けるという作戦です。

これが見事成功し三澤氏は臣従、周囲の国人たちも経久の謀略を恐れ次々と傘下に入りました。

 

月山富田城

武威英々赫々たり、去れば攻れば落ち、招けば降り、暫くの間に安藝、備後、備中、幷美作、因幡、伯耆、出雲、隠岐、播磨、都て十一國を掌握し玉ふ、

雲陽軍実記 尼子伊予守経久切返富田城 幷笘屋千万歳之事より

とたちまち勢力図を塗り替えたかのように書かれていますね。でもそんなことはありません。

大大名の大内氏や山名氏と争い手と結び、時には内部紛争があったりもしました。紆余曲折ありながらも巧みに難題を突破しつつ力を付けていったのでありました。

雲陽軍実記には『都て十一國を掌握し玉ふ』となっていますが、ちょっと…いやかなり怪しいです。確かにこの11ヵ国に対して強い影響力はあったでしょう。でも全ては言い過ぎかな。

尼子経久は1541年(天文10年)、満82歳で亡くなっています。

 

尼子経久の逸話

月山富田城

塵塚物語に経久についての興味深い逸話が残されています。

さて、この経久は、天性、無欲、正直な人で、浪人を扶助し、民とともに苦楽を同じくし、なにごとにつけ、困窮した者を救われたので、その部下には、頭をたれ、心から尊敬する者が多かった。

(中略)

客が、経久所持のものをほめると、自分でも喜んで、それほど好ましくほめられるならばあなたにさしあげようなどと言って、書・衣服・太刀・刀・馬の鞍にいたるまで、すぐにその人に贈られたとか。

塵塚物語 101~102頁 六、尼子伊予守の無欲・極め付きの物語(鈴木昭一 訳)より

極め付けは或る者が経久のところに訪れ松の木を褒め称えたというものです。

まさか、松の木を褒めたからといって『君にあげよう。』とは仰らないだろうと思った男は松を褒めます。すると経久は翌日、家来に松の木を掘らせ昨日の客にやるといいと言い出します。

家来たちは松の掘り出しに成功しますが、大きすぎて運搬出来ず、庭から出すことが出来ません。困った家来は経久にお伺いを立てます。

『なんだ、そんなことか。それならば仕方がない。その松を細かく切って、やるとよい』

塵塚物語 104頁 六、尼子伊予守の無欲・極め付きの物語(鈴木昭一 訳)より

という逸話が残っています。

いちのまる
いちのまる

流石に松の件は創作でしょうが、家臣や周囲の人たちから尊敬されていた人物だったということが読み取れますね。

 

尼子晴久について

月山富田城

尼子晴久は経久の孫にあたります。晴久の父である政久が若くして亡くなってしまったため晴久に家督が渡りました。

この頃から安芸国の毛利元就が台頭してきます。

サレドモ爰ニ一ツノ残念ナルハ、生前ニ尼子ヲ退治セザル事是子孫ノ禍ヲ遺ス所歎クニ猶餘リ有、

(中略)

彌々厚クシ禮テ卑詞シテ元就ヲ味方ニ引成スベキ謀ヲ専要トセヨ、元就同意セラレバ彼ヲ先鋒トシテ、藝州ヨリ石州ヲ、雲州ヘ發向セバ、尼子退治踵ヲ廻ス可カラズ、扨尼子ヲ事故ナク退治シテ、其後元就ノ
子息ヲ當家ト縁ヲ通ジ、方便リテ山口ヘ引寄ナバ縦ヒ元就反心有共、流石恩愛ノ捨ガタクテ、當家ヲ背ク事成リ難ク彌々忠志ヲ〇マサル可シ、

陰徳太平記 毛利元就被屬大内義隆事より

陰徳太平記では近隣大名の大内義興が亡くなる前に『尼子を倒せなかった事だけが心残り。毛利元就はすごいやつだから味方に引き入れて一緒に尼子退治して。

元就に裏切られないように縁組すれば、あいつでも当家のために一生懸命働くだろう。』みたいなことを言っています。

 

月山富田城

經久公苦しき聲を上げ玉ひ、義勝が軍配我心に能合へり、小勢成迚、元就を侮る事なかれ、我は旣に今終焉に近ければ、亡き跡にて下野守を我と思ひ、軍事、政道も彼が諫を用て、分國を治めよ、併し彼も老年なれば、又新宮の國久を後見とすべし、最國久父子は文なき故、政道は僻事も有べし軍務は鬼神の如き剛勇の者也、行末迄も新宮等軍事に備え、一家和合して親み深くせば、國々の幕下背く事有まじ、

雲陽軍実記 毛利陸奥守元就由来 附尼子下野守義勝軍謀諫言事より

尼子経久は家督を継ぐ晴久に↑のように語っています。

義勝(経久の弟)を私だと思い、軍事も政治も悪い所があれば言ってもらい国を治めなさい。しかし義勝も高齢だから何があるかわからない。

もしそうなったら新宮の国久(経久の次男)を後見としなさい。でも国久父子は学問に疎いため、政治は難ありだけど軍事は鬼のように強い。いつまでも新宮等軍事に備えて、一家仲良くすれば、国々の配下たちは背くことはない。

さて、その後どうなったか…。

 

晴久の進軍

月山富田城

尼子晴久は井上というもの意見を取り入れ毛利元就が居城、吉田郡山城攻めを開始します。

此時、經久公は最早、心地も聢々在しまさざれば、有無の御指揮もなく、義勝公聞玉ひ、井上は元就に一類を亡され、其遺恨を當家の武威を借て散ぜんと思ふ故、毛利退治を指し急ぐなり、何ぞ彼等が如き小人の諫を誠として大義を誤り玉うな、

雲陽軍実記 毛利陸奥守元就由来 附尼子下野守義勝軍謀諫言事より

経久はもう気分もはっきりしない様だったので晴久に指示出来ませんでした。

経久に代って義勝が諫めるも…。

天文9年9月上旬(1540年)、月山富田城から1万余を引き連れ晴久は出陣してしまいます。

ちなみに陰徳太平記ではしっかり経久にお伺いを立てています。

今晴久假令數万騎ヲ率イテ押シ寄セラルルトモ、急ニ勝利ヲ可難得、

陰徳太平記 尼子晴久藝州發向評定付伯州大山神勅ノ事より

経久は今、数万で攻めても急に勝利は得難いと言いました。

遠い場所なので兵に疲れがでて注意散漫になり奇襲を受けやすくなる。また後ろに大内氏も控えていることだし徐々に足固めして攻めていくべきだろうと諫言。

しかし晴久は大軍を引率して攻めれば元就は逃げ出すに決まっていると言い出陣しました。

 

吉田郡山城の戦い

月山富田城

尼子晴久vs毛利元就『吉田郡山城の戦い』が始まります。

一萬騎を引率して、九月上旬、富田を打ち立ち、日を經て藝州吉田に着玉ふや否、町家、民屋を不殘焼拂ひ、攻寄せ玉へば、

雲陽軍実記 芸州吉田度々合戦 附尼子義勝討死之事より

晴久率いる大軍は遠路休まず歩いため疲労が溜まり士気が低い状態でした。

一方毛利氏の軍勢はここで負けたら後がないため必死の覚悟で敵と戦います。

 

尼子方にば一日は人馬を休めん迚、一向合戰の支度も無き所へ、巳の刻に、毛利方より夜討して、處々にて鯨波を上げ、一文字に切て巡りけれども、昨日の合戰、餘り手痛く働きける故、殊に不意なれば、十方を失ひ、周章ふためく計りにて一戰にも及ばず、

雲陽軍実記 芸州吉田度々合戦 附尼子義勝討死之事より

毛利氏の奇襲を受け慌てふためく尼子軍。

尼子も毛利も徐々に後続の部隊が集結しつつあります。尼子氏は幾つかの向城を造り機会を伺い、毛利氏は砦を設置し敵の侵攻を妨げます。

ついに尼子方の向城の一つが破られる。そして晴久がいる陣に脇目も振らず突進してくる毛利軍、大乱戦が始まります。

毛利軍は着実に尼子の向城を潰していき、尼子方は追い詰められていきます。

 

尼子義勝、戦死

月山富田城

防州山口より加勢として、陶尾張守隆房、一萬餘騎にて、山中と云所に陣勢を飾り、軍の機を考へけるに、

(中略)

山口勢計にて、晴久の本陣へ切入べしと思案して、明れば天文十年正月十四日寅の刻に、晴久公の陣所へ押寄せ、三度凱歌をどつと上げて手痛く戰ひける、

雲陽軍実記 芸州吉田度々合戦 附尼子義勝討死之事より

とうとう山口方面から援軍として大内家臣の陶隆房(晴賢)がやってきて尼子勢を追撃します。

このときの戦いで晴久の後見人・尼子義勝が戦死しました。

義勝味方を見玉へば、七百騎の手勢、今は七八十騎に討なされ、頼切たる郎黨共も、所々に討れければ、長刀を逆様に突立て、快氣に打笑ひ、今日の模様にては修羅にて戰たり共未だ、某が力量は昔に劣ず、去らば美事に腹切とて、薙刀ひらりと投捨て玉ひ、腹十文字に掻切て、春の雪と共に消玉ふ、

雲陽軍実記 芸州吉田度々合戦 附尼子義勝討死之事より

吉田勢ノ中ニ、中原善左衛門宮崎ノ合戰散シテヨリ、陶カ合戰ノ手振見ントテ、爰ヘ來リケルカ、尼子下野守眞先ニ進マレタルヲ見テ、馳寄ツテ大雁俣ヲ打番ヒ能引イテ、放チケレバ、其矢下野守ノ眉ノ外レヲ、シタタカニ射込ミケル程ニ、サシモ樊噲ガ勇ヲナシシ、下野守モ虚伏ニ倒レラレニケリ、

陰徳太平記 靑三猪山合戰付尼子下野守討死ノ事より

義勝最後のシーンです。

雲陽軍実記では十文字切腹、陰徳太平記は矢で射貫かれたとあります。

吉田郡山城の戦いの敗北と尼子経久・義勝の死去によって中国地方の国人衆は晴久から離れていき、尼子氏は窮地に立たされます。

 

第一次月山富田城の戦い

月山富田城

中国地方の国人衆が『尼子を討伐すべし!』と大内氏に連判状を出したことをきっかけに第一次月山富田城(1542~1543)の戦いは始まりました。この戦いには大内氏当主の大内義隆も参戦しています。

大内氏はまず備後、石見、出雲三国の境にある赤穴城の攻略を目指します。

斯して六月七日、熊谷平藏直續三百騎斗りにて抜け掛し、先赤穴在家に放火し城に近寄ける間、城兵も足輕を出し、

雲陽軍実記 赤穴初度合戰 幷熊谷直續被討事より

七月廿七日卯の上刻、四万余騎、城の四方より鬨を作り、攻上る事夥し平賀、陶、吉川杯一手に成て、五千余騎、藤ヶ釣の大手の門を力攻めに押破んと、ゑいゑい聲にて上りければ、

(中略)

頓て田中が謀を以て、大内家へ降參願はれ使者を遣す、大内家には右京亮逝去とは夢にも不知、攻あぐみ居ける其中へ、降參使者來り、不思寄喜びなれば兎角の返答にも不及、然ば明日、城を受取り幸清にも對面を遂べしとて、攻口々々を退て、軍勢萬歳を謠けり、

雲陽軍実記 再赤穴合戰 付城主右京亮主從戰死事より

大内氏は赤穴城の攻略に苦戦しました。雲陽軍実記によると、6月7日に赤穴攻めが開始され7月27日に約40000騎で城を包囲し力攻めし降伏海上したとあります。

『田中が謀を以て』の謀は降伏したかに見せて敵に気づかれないようこっそりと城内の兵、女子供、手負いの者を引き連れ月山富田城まで逃げ落ちたことを言います。『二十里斗りの行程を辛苦して上下三千人斗り、月山の城に入ける』と書かれています。

天文十二年正月、富田城惣攻あるべしとて四万五千餘騎押寄せ、日日夜々合戰に及びけるが、動もすれば、寄手、利を失ふ故、相良が観察に違はず彼の返り忠せし十三人の内、十人は又富田へ歸參し、月山城へ入り、即時に大内を敵にせられけり、

雲陽軍実記 大内義隆、富田へ攻入、所々陣替 附敗走之事より

さて、大軍で攻め込んだ大内義隆ですが、難攻不落の月山富田城はなかなか落ちませんでした、次第に兵糧が苦しくなり攻め手が不利になっていきます。

最後は『尼子を討伐すべし!』と連判状出した13人の国人の内10人が再び尼子の味方をし大内軍は敗退してしまいます。

第一次月山富田城の戦いの勝利により尼子晴久は以前までの尼子氏の力を取り戻すことが出来ました。

逆に大内義隆は寵愛していた大内晴持をこの戦で失ってしまい、これ以降は領土拡大に消極的になります。

そしてこのことが原因で武闘派の陶隆房などが義隆を見限り謀叛を起こすことで大内氏滅亡に追いやることになります。

 

新宮党、粛清

月山富田城

吉田郡山城の戦いでの失敗であわや滅亡か?と思われた尼子氏。

第一次月山富田城の戦いで窮地を脱し地固めをし再び領土拡大を目指します。

1551年(天文20年)に陶隆房によって大内義隆が謀殺されると、翌年に室町幕府将軍・足利義輝より山陰山陽八ヵ国の守護に任じられています。

いちのまる
いちのまる

中国地方の殆どを統治出来る立場になったということです。

公けに認められたのですから経久を越えたと言っても過言ではありません。

1554年(天文23年)、晴久は尼子国久、誠久父子が束ねる新宮党を粛清しています。雲陽軍実記ではこの粛清を毛利元就の謀略としています。

又極罪人壹人を順禮山伏の躰に仕立、國久より元就公へ謀反の書翰を肌に掛けさせ、富田川の水上にて溺死させ玉へば、川下の洲先に懸り居けるを、郷人原見當り、彼書翰と死骸とを月山に注進しければ、頓て書面を披見有るに、新宮黨毛利に心を寄、内変を生じ、晴久父子を奉討、忠賞可給哉の文書なり、

雲陽軍実記 新宮黨父子横死 幷敬久討死落書之事より

毛利元就が罪人の懐にニセの書状を入れ殺害。その書状が晴久の下に届けられ疑われた新宮党が粛清されたというわけです。

元就が一枚噛んでいる可能性もありますが、本当のところはわかりません。

尼子氏の武闘派である新宮党は今までの活躍から天狗になり家中内で横柄な態度を取っていたという記述もあります。権力の基盤を強めるために粛清を行っただけのことかもしれません。

尼子経久も『最國久父子は文なき故、政道は僻事も有べし軍務は鬼神の如き剛勇の者也』と言っていますからね。政治に絡んできて面倒なことになったとも考えられます。

いずれにせよ経久が晴久の後見として選んだ人間は皆死にました。

 

その後の尼子晴久

月山富田城

山陰山陽八ヵ国の守護になった晴久ですが、なかなか事はうまく運びませんでした。

大内領の殆どを手に入れた毛利元就との戦いが日々激しくなっていきます。

晴久公、永祿五年十二月廿四日の暁行年四十八歳にて手水の爲に椽先へ出て頓死有りし社勞敷けれ、

雲陽軍実記 元就元春於嚴島鰐淵山調伏法被修事より

なんと、ここで晴久が突然死してしまいます。(Wikipediaなどには永禄3年死亡と書かれています。どっちが正解なのかはわかりません。)

又翌年八月四日和地の元實が毒薬にて、毛利大善大夫隆元は行年四十一歳にて頓死し給う、

雲陽軍実記 元就元春於嚴島鰐淵山調伏法被修事より

雲陽軍実記には『毛利尼子は己の欲のため争い中国地方の民を苦しめた。また元就元春父子は神仏に祈り敵(晴久)を呪詛して落命させた。何か天罰が下るだろう。(隆元の死)』的なことが書かれています。

尼子晴久の死によって尼子氏は瓦解していきます。

 

月山富田城の終焉

月山富田城

尼子晴久の跡は嫡男の義久が継ぎました。

経久が亡くなった時と同様に晴久の死後中国地方の国人衆の多くは尼子氏を見限り毛利方に付いています。

第二次月山富田城の戦いで尼子義久は降伏し、後に毛利氏の客人扱いとなっています。これにて大名家としての尼子氏は滅亡しました。

 

月山富田城

織田信長や羽柴秀吉が活躍する時代に尼子旧臣の立原久綱、山中鹿介や亀井茲矩たちが尼子勝久(新宮党・誠久の子)を擁立し尼子再興をめざし毛利氏と戦いが失敗に終わっています。山中鹿介と尼子勝久は播磨上月城の戦いで籠城の末死亡しました。

1600年に関ヶ原の合戦が起こるまで月山富田城は毛利氏の城となります。

関ヶ原の合戦後には江戸幕府から出雲・隠岐を任された堀尾吉晴が松江城を築き居城としたことで月山富田城は役目を終えます。

 

終わりに

月山富田城

月山富田城の記事というよりは尼子氏、特に経久と晴久の記事になってしまいましたね。

まぁ、こんな軍記物語を引っ張りだしてきてつらつらと書かなくてもよかったのですが。(すげー時間かかった…。)

いちのまる
いちのまる

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月山富田城は素晴しい山城です。

時間と体力があるのなら本丸まで登ることをおすすめします。

かなり疲れますが達成感は半端ないですよ!

おしまい!

 

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