谷崎潤一郎 人と文学 表紙より引用
『気持ち悪い…。この余韻はいつまで続くのか?』
【痴人の愛】を読み終えてそう感じた。
谷崎は【文章讀本】で以下のように記している。
仮りに私が、名文とはいかなるものぞの質問に強いて答えるとしましたら、
長く記憶に留まるような深い印象をあたえるもの
何度も繰り返して読めば読むほど滋味の出るもの
と、まずそう申すでありましょうが、この答案は実は答案になっておりません。『深い印象を与えるもの』『滋味の出るもの』と申しましても、その印象や滋味を感得する感覚を持っていない人には、さっぱり名文の正体が明らかにならないからであります。
中央公論新社発行 谷崎潤一郎著 文章讀本 83~84頁より引用
“その印象や滋味を感得する感覚を持っていない人”に私が該当するかどうかは知らないが、これまで読んできた彼の作品は私の心に強烈な印象を与えている。特に気に入った作品ならば何度でも読める。(まぁ、これは感性に加え相性もあるだろうから個々人によると思うが。)
谷崎潤一郎の文学には常軌を逸した変態やどぎつい悪女が度々登場する。彼らに幾らかでも共感出来れば、あなたもきっと彼の世界に引き込まれていくだろう。
さて、知ったようなことを語りましたが、私は谷崎文学初心者です。まだ10冊程度しか読めていません。
読書は好きなので歴史書や自己啓発系の書籍はよく読んでいました。しかし小説は殆ど読みませんでしたし、読んでもそれ程感銘を受けたことはありませんでした。
谷崎潤一郎との初めての出会いは【陰翳礼讃】です。『綺麗な文章だなぁ。』と思うくらいで、その良さは正直わかりませんでした。それから少し間をおいて読んだ【蓼喰ふ虫】に衝撃を受け谷崎の魅力に嵌っていったと記憶しています。
今回、兵庫県芦屋市にある谷崎潤一郎記念館に訪問しました。この記事では谷崎潤一郎の生涯について紹介します。
もう少々お付き合い下さいまし。
谷崎潤一郎記念館へのアクセス
自家用車で行く場合は国道43号線の芦屋高校前の交差点を南(大阪方面からなら左折)に曲がり、3つめの信号を右折。突き当たりを左折し道なりに進むと芦屋市美術博物館駐車場があります。
公共交通機関をご利用ならJR芦屋駅、阪急芦屋川駅、阪神芦屋駅からバスが出ています。『緑町』バス停が記念館すぐ近くです。
芦屋市谷崎潤一郎記念館のHPに様々な情報が掲載されていますので、行かれる方は一度見てください。
谷崎潤一郎の生涯
以下の文章は芦屋市谷崎潤一郎記念館で購入した『谷崎潤一郎 人と文学』を参照に執筆しております。
文豪・谷崎潤一郎は1886年(明治19年)7月24日に東京の日本橋で生まれました。
父は生粋の江戸っ子・倉五郎、母は関と言います。谷崎は『顔ばかりではなく、大腿部の辺の肌が素晴らしく白く肌理が細かだつだ』と母について語っています。写真を見ると確かに整った綺麗な顔をしています。
祖父の久右衛門が商売上手だったため幼い頃は何不自由なく生活していました。しかし父・倉五郎が事業に失敗したため中学進級すら危ぶまれるほどの困窮に見舞われています。幸い谷崎はビックリするような秀才でしたので、周囲からの援助があり、また本人も苦学することで東京帝国大学に入学することが出来ました。
東京帝国大学時代に刊行された第二次『新思潮』(文芸雑誌)に参加し【誕生】や【刺青】などを発表。谷崎の作品は永井荷風などに絶賛されます。また商業雑誌『中央公論』に【秘密】が掲載されたりと作家デビューは華々しいものとなりました。
1915年(大正4年)29歳のとき、石川千代と結婚。翌年に長女・鮎子が産まれています。
この頃、谷崎は映画の芸術性に着目し製作に関わっています。妻・千代の妹であるせい子を女優としてデビューさせています。せい子は【痴人の愛】の主人公・ナオミのモデルになった人物です。
1921年(大正10年)、小田原事件が発生。これは谷崎と親交のあった詩人の佐藤春夫と千代、せい子の間で起きた恋騒動です。
そんな千代を見て佐藤春夫が同情し恋に発展。
谷崎は佐藤春夫に千代を譲ることを約束し、せい子に求婚。
谷崎、せい子に振られる。↑の約束を反故にする。
佐藤春夫、怒って二人の元から去る。
1923年(大正12年)9月1日、避暑と執筆のために滞在していた箱根で関東大震災に遭遇し関西に避難しています。初め京都に住みましたが、あまりに寒かったため温暖な阪神間に移り住みました。
1927年(昭和2年)、運命の人・根津松子と出会う。谷崎は松子に対して恋心を抱くも高嶺の花とあきらめています。
1928年(昭和3年)に【蓼喰ふ虫】を発表。
西洋かぶれの傾向があった谷崎が日本の伝統文化に回帰したとされる作品です。子供のために離婚できない冷め切った夫婦を描いた物語。夫の要が徐々に日本の古き良きに惹かれていく様が『日本伝統文化への回帰』といわれる由縁です。
1930年(昭和5年)に谷崎は千代と離婚。
千代は佐藤春夫と結婚しました。これを細君譲渡事件といいます。かなり世間を賑わしたようで、新聞記者に質問攻めされました。困った谷崎は新聞に『再婚条件七箇条』なるものを掲載しています。
その内容は、〈関西の婦人、二十五歳以下で初婚、手足が綺麗、おとなしく家庭的〉などといったもので、その『平凡さ』に周囲は呆れたという。
谷崎潤一郎 人と文学 36頁より
これをきっかけに古川丁未子と結ばれ1930年(昭和6年)に婚約。千代との離婚からおよそ半年後の出来事です。
さらに…。
以前出会った根津松子から手紙が届き急接近。松子は根津家の倒産、家庭崩壊から谷崎を頼りました。谷崎にとって松子は憧れの人でした。靡かないわけがありません!
1931年(昭和7年)、丁未子と別居。1935年(昭和10年)に離婚、同年松子と結婚しています。
戦時中に長編小説【細雪】を執筆し中央公論に連載発表。好評でしたが軍部からの圧力で連載を止められてしまいます。1944年(昭和19年)に【細雪】の上巻を私版で発表するものの警察に目を付けられ、中巻の上梓を禁じられてしまいます。
【細雪】は戦後まで書き続けられ1948年(昭和23年)下巻が完結、ベストセラーになりました。この時62歳でした。
生前松子は「『細雪』はあのころの私たち姉妹のことがそのまま描かれていて、まるで日記のようで小説のような気がしない」と言っていた。即ち貞之助が潤一郎、幸子が松子で鶴子は長女・朝子、雪子は三女・重子、妙子は四女・信子にあたる。
谷崎潤一郎 人と文学 43頁より
とある一家の日常を読むわけだけど、かなり引き込まれます。
阪神大水害の場面が特に記憶に残っています。九死に一生を得た妙子の表情の描写に『ゾクッ』としました。
1955年(昭和30年)、谷崎70歳のとき自身の幼少期を思い出し【幼少時代】にまとめています。これはまだ読んだこと無いので後日追記しようと思います。
晩年に【鍵】や【瘋癲老人日記】などの名作を発表。老人・谷崎の性癖全開の作品となっております。『ヤバい、キモい作品(誉め言葉)』です。
1965年(昭和40年)7月30日、腎不全から心不全を併発し、79歳でこの世を去ります。
源氏物語の現代訳の取り組みやその他作品について書くべきことは沢山あるのですが、まとめ切れなかったので割愛しました。さらに読んで勉強してこの記事を充実させていこうと思っております。
取り敢えず今はこれで終わりにします。
終わりに
私は旅が趣味なものですから、兵庫県に訪れたら絶対に谷崎潤一郎記念館に行こうと考えていました。
大分から自動車で4泊5日の『岐阜→富山→石川→福井→滋賀→奈良→兵庫』城巡りを敢行した際、最終地点に谷崎潤一郎記念館を選びました。
自動車長距離運転、睡眠不足、城巡り、登山でへろへろな私でしたが、記念館に着いた途端、脳内でスイッチが切り替わったのか覚醒。目をギラギラさせながら、思う存分記念館を楽しめました。
退館後のことは殆ど覚えてません!
おしまい!