国東市にある安岐城は豊後大友氏の一族である田原氏が南北朝時代に築いたとされています。
東は伊予灘、南に安岐川、北は自然の谷に囲まれた防御力高めの広さ13000㎡の平城です。
それでは安岐城の風景と歴史を見ていきましょう。
安岐城の場所
大分空港方面から国道213号線を別府・杵築方面に向かうと右側に看板があります。
空港から5分くらいの距離です。
安岐城について
築城者とされる田原氏は豊後大友氏初代・能直の庶子である泰広を祖としています。
能直は源頼朝の部下ですので平安時代後期から鎌倉時代の人物です。田原氏は能直の子供から繋がっている家系なので大友三家の一つに数えられています。
豊後国図田帳という文書の田原郷(現在の杵築市大田沓掛あたりかな?)の項目に泰広の名前があるので地名から苗字を取ったことがわかります。
安岐城の説明板によると発掘調査で16世紀中頃から17世紀初頭にかけて3回の増改築の跡が発見されたとのことです。
発掘でわかった最初の増改築は田原親宏の頃とされています。親宏は田原氏の影響力を恐れた大友氏20代目・義鑑に危険視され国外追放になっています。その後、21代目・大友宗麟が義鑑の跡を継ぐと親宏は許され国東の安岐郷を与えられます。その際に安岐城を拠点にして整備しました。
許された田原親宏は大友氏の重臣として毛利氏などと戦い戦功をあげますが、大友宗麟も父・義鑑と同様に田原宗家の力を恐れ親宏の所領を奪い分家の田原親賢(紹忍)にその領地や高い身分を与えています。
1578年に起きた大友氏と島津氏の戦い耳川の合戦で大友氏は惨敗し大きく衰退します。1回目の増改築で説明した田原親宏は1579年に死去し婿養子の親貫が田原宗家の跡を継いでいます。
大友宗麟は親宏が亡くなる少し前に息子の大友親家を田原宗家の跡継ぎにさせようと企んでいました。これに分家の田原親賢(紹忍)も一枚噛んでいるようです。
田原宗家の跡を継いだ田原親貫は大友宗麟と田原親賢(紹忍)の企てを知り謀反を起こします。親貫は大友氏の本拠地である府内に海から襲撃を試みますが失敗しています。
その後、田原氏の安岐城は大友宗麟に攻め込まれ落城しています。謀反した親貫は自害したとも落ち延びたとも云われています。
そして田原宗家は大友親家が継ぐことになりました。
2回目の増改築はこの辺りに行われたとされています。籠城のための改築なのか、落城後の改修によってなのかは説明板から読み取れませんでした。
1593年、大友氏22代目・義統が改易されると豊臣家臣の熊谷直盛に安岐城が与えられます。直盛はそれまでの城郭を本格的に改修したとされています。
1600年の関ヶ原の戦いで西軍の味方をした熊谷氏は安岐城を東軍の黒田官兵衛に包囲され降伏しています。その後、安岐城は廃城になったようです。
終わりに
安岐城の案内板に
今では、古城として天満社を祀り、千人塚や姫墓が当時の悲運を物語っている。
安岐城跡 看板より
とありました。
天満社はわかりましたが。千人塚や姫墓がどれのことをいっているのかさっぱりわかりませんでした。それがちょっと残念。
おしまい!