信州真田氏は優秀な人間を多く輩出しています。
真田氏の礎を築いた真田幸隆。武田信玄に仕え武田二十四将の一人に数えられました。
幸隆の長男・信綱と次男・昌輝は武勇に優れ信玄に高く評価されていたと伝わります。彼らも父親と同じく武田二十四将に選ばれています。
信綱は兎に角戦が強く前線で活躍しましたが、長篠の戦いで討ち死にしてしまいました。
昌輝は武田信玄に『わが両眼なり』といわせたほどの傑物で兄・信綱と共に出陣することが多かったそうです。彼も長篠の戦いで戦死しています。
そして三男、徳川キラーこと真田昌幸。
主家の武田氏が滅亡した後、独立。
周囲は後北条、上杉、徳川といった大大名ばかり。いつ攻め滅ぼされてもおかしくない状況のなか御家を存続させ、真田の名を後世まで繋げた人物です。
昌幸の二人の息子、信之と信繁(幸村)。この二人も真田氏を語る上で外せません。
今回は真田昌幸が築城した上田城に行ってきました。
真田氏の歴史に少し触れようと思っているのですが、事細かく紹介するとキリがないので1600年の関ヶ原の戦い以降について記します。
それでは参りましょう。
上田城へのアクセス
上越自動車の上田菅平ICを左に下ります。
国道144号線を道なりに進み国道18号線と合流します。
合流地点から5~7分進むと上田城跡公園入口の信号がありますので左折、天神2丁目の信号を右折し少し進むと上田城跡駐車場に到着します。
関ヶ原の戦いの真田氏
平成28年度のNHK大河ドラマは真田幸村が主人公の『真田丸』でした。
幸村は真田昌幸の次男として生まれました。
1600年の関ヶ原の戦いでは、
・東軍(徳川家康側)に幸村の兄、真田信之
ご存じの通り東軍が勝利して終わります。
昌幸、幸村は上田城に立て籠もり徳川秀忠(徳川二代将軍)の大軍を翻弄して追い返しています。
しかし関ヶ原の決戦で西軍が敗北してしまったため昌幸、幸村親子は流刑になります。本来なら死罪になるところでしたが、信之、義父の本多忠勝が助命嘆願することで生き延びることが出来ました。
大阪冬の陣の真田幸村
真田信之は関ヶ原の戦い後に上田と沼田の領地を手に入れます。
かたや真田幸村はこのあと出家し俗世から離れます。
1614年に徳川と豊臣の関係が悪化し戦争が避けられない状態になると豊臣家は浪人を集め始めます。
このときに幸村にも声が掛かり、これに呼応します。大阪冬の陣が始まります。
幸村死す
大阪冬の陣で幸村は大阪城の一角の惰弱な箇所を発見。
そこに真田丸という出城を築き徳川側を挑発し損害を与えました。
この戦いで真田幸村の名は一躍有名になったと云います。
徳川方に多大な損害を与えたものの大阪方が家康と和議を結んでしまったため真田丸は取壊されてしまいます。
翌年の1615年に徳川家康が豊臣氏に難癖をつけて大阪夏の陣が始まります。
幸村は玉砕覚悟で家康本陣に特攻し家康を脅かしました。
しかし圧倒的な兵力さに追い詰められ幸村はとうとう打ち取られてしまいました。享年49。
『第一次上田合戦、第二次上田合戦、大阪の陣』3度にわたって徳川家康に刃向かった真田氏。
家康に味方した同族の真田信之は父と弟が何かと徳川家康に逆らうので立ち回りが大変難しかったことでしょう。
それでも信州上田藩と上州沼田藩を治める大名として認められています。
苦労を重ねた人生でしたが、物凄く長生きしています。
没年は1658年。享年93でした。
終わりに
個人的には真田氏の中では昌幸が好きです。
計略家で強運の持ち主。
『武田氏→織田氏→後北条氏→徳川氏→上杉氏→豊臣氏』と渡って生き延びています。
豊臣秀吉に信用されず、徳川家康からも危険視されたけど真田氏を存続させた凄い人。
関ヶ原の戦いで親子分かれて戦ったのも、真田家を存続されるための策略なんじゃないかと思ってしまいます。
おしまい!