松本市

国宝・松本城の歴史について!土砂降りの松本城をめぐる【長野の旅】

信玄が小笠原領に侵攻。信濃国守護・小笠原長時は林城・深志城を信玄に奪われ追放されてしまいます。深志城は武田氏の支配下に置かれ、林城は廃城となり、深志城が長野北部の重要拠点に。 武田氏が滅亡した後、信長は木曽義昌に深志城の城代を任じました。信長が本能寺の変で横死すると旧織田領地の奪い合いが始まります。
上田市

親子そろって徳川家康をビビらせた真田氏と上田城について【長野の旅】

信州真田氏は優秀な人間を多く輩出しています。真田氏の礎を築いた真田幸隆。武田信玄に仕え武田二十四将の一人に数えられました。幸隆の長男・信綱と次男・昌輝は武勇に優れ信玄に高く評価されていたと伝わります。信綱は兎に角戦が強く前線で活躍しましたが、長篠の戦いで討ち死にしてしまいました。
東吾妻町

真田幸村のお爺さん・幸隆が城主だった天然要害・岩櫃城跡へ!【群馬の旅】

岩櫃城の築城者および築城年はわかっていません。一説によると1400年くらいに越前国(福井県)からやってきた斎藤憲行という人物が築城したと云われています。斎藤氏は上杉謙信の後ろ盾を得て、吾妻一帯を掌握するほどの力を付けました。しかし1560年代に上野侵攻を目論む武田信玄に目を付けられてしまいます。
みなかみ町

名胡桃城事件とは?『豊臣vs後北条』小田原征伐のきっかけはここにあった!【群馬の旅】

名胡桃城は築城から約10年で廃城になってしまった短命な城ですが、その歴史は濃いです。と言うのも、戦国時代を語るに外せない大戦の引き金になった事件がこの城で起きているからです。さて、名胡桃城で何があったのか?歴史を振り返ってみましょう。
鹿児島市

薩摩島津氏が築城した鹿児島城へ行ってきた!その歴史を簡単に紹介する【鹿児島の旅】

薩摩島津氏の初代は平安時代後期から鎌倉時代に活躍した惟宗忠久という人物です。忠久は源頼朝から南九州の島津荘の下司職に任じられます。その土地の名前から代々島津氏を名乗るようになりました。『中世島津氏研究の最前線』によると鎌倉期の島津本宗家は鹿児島県出水市の木牟礼城を拠点にしたと書かれています。
甲府市

武田神社に参拝してきた!信玄公が祀られる勝運パワースポットってどんなところ?【山梨の旅】

武田神社は武田信玄ゆかりの地。ここは戦国時代に活躍した武田氏の居館・躑躅ヶ崎館の跡地に建立された神社です。御祭神はもちろん武田信玄。勝負強さや勝運の御利益があるパワースポットとして多くの祈願者が参拝します。それでは武田神社の風景を見ていきましょう。
岐阜市

岐阜城の歴史と美濃のマムシこと斎藤道三の国盗りについて【岐阜の旅】

稲葉山城(岐阜城)を拠点にした斎藤道三の一代国盗りはあまりに有名です。でも最近の研究では親子二代で国を乗っ取った説が有力になっているようです。ですので斎藤道三の前半生は父の庄五郎の後半生と入り混じっていてかなりややこしいことになっています。今回は岐阜城の歴史と斎藤道三の国盗りについて書いていきます。
鹿児島市

薩摩島津氏15代目・貴久が築城した内城へ!訪問しての感想は『もう少し情報が欲しかった』です【鹿児島の旅】

島津貴久はそれまでの居城だった清水城を出て内城を築城します。貴久の長子である義久もここを居城としました。薩摩藩初代藩主の島津忠恒が鶴丸城(鹿児島城)を築くと内城は使用されなくなり大龍寺が建立されます。大龍の名は島津貴久の戒名『南林寺殿大中良等庵主』と島津義久の法号『龍伯』から取られています。
上越市

上杉謙信の居城だった春日山城に登城してきた!おまけで御家騒動・御館の乱について【新潟の旅】

新潟県上越市にある春日山城跡は春日山に築かれた山城です。登城当日は生憎の雨…。ぬかるむ登山道にあくせくしつつも写真を撮りながら本丸まで登ったのですが、帰宅してから写真を確認するとブレブレな画像ばかりで酷い有様でした。再訪する機会に恵まれれば、しっかりと春日山城の景色を捉えたいと存じております。
沼田市

信州真田氏にゆかりのある沼田城の歴史についてざっくり紹介する!【群馬の旅】

現在の沼田城跡はプチ動物園&公園として整備されていますが、遺構は殆ど残っていません。戦国時代に活躍した真田信繁の兄、真田信之が城主を務めたことで知られる城です。目立つ遺構こそありませんが、ここを拠点に自家の存続に命をかけて戦った男がいたんだな。と想像を巡らせて散策するだけで十分楽しめるかと思います。
岩国市

岩国城と宰相殿の空弁当で有名な吉川広家について【山口の旅】

岩国城は毛利家臣の吉川広家が江戸時代初期に築城した山城です。城は標高およそ200mの山に築城され、その麓には城を囲うように錦川が流れています。今回は1962年(昭和37年)に復元された岩国城天守の様子と関ヶ原の戦い以後の吉川広家について見ていくことにしましょう。それでは参ります!
藍住町

盛者必衰の…。細川・三好の両名家が治めた勝瑞城の歴史を振り返る【徳島の旅】

阿波細川氏、畿内の覇者・三好長慶の一族が本拠とした勝瑞城。かつてはここを中心として阿波国の政治や経済、文化などが成長し城下町が繁栄しました。築城時期や築城者は定かではありませんが、十五世紀中頃に細川氏が守護所を土成町の秋月から勝瑞に移した…(後略)国指定史跡 勝瑞城館跡 案内板より
臼杵市

大友宗麟が国崩し(大砲)をぶっ放して守り切った臼杵城に行ってきた!【大分の旅】

臼杵市の城下町は風情があります。古めかしさの中に新しきを取り入れた街並みには感心するばかりです。歴史が好きな方は勿論、それ程興味のない方でも、あの街並みを散策するだけで充分に楽しめることでしょう。さて、そんな城下町の中心にあった臼杵城とはどんなお城なのか?臼杵城の風景とその歴史について紹介致します。
松山市

湯築城の風景と伊予の豪族・河野氏の歴史について紹介する!【愛媛の旅】

14世紀前半(南北朝時代)~16世紀末の約250年間、伊予の豪族・河野氏が湯築城を居城としました。河野氏は越智氏を祖とする地方豪族で善応寺付近にあった河野郷から勢力を拡げたと伝わります。平安時代末期、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝が挙兵すると河野通清・通信父子はこれに従い平家の軍と争いました。
木城町

耳川の合戦とは?大友vs島津の決戦をフロイス日本史から見る【宮崎の旅】

耳川の戦いは1578年に大友宗麟と島津義久の間で行われた合戦です。耳川で場所で起きたと思われがちですが、実際は高城という城を巡って争われました。この戦いで大敗を喫した大友氏は没落の一途を辿ることになります。今回はルイス・フロイスの日本史を参考にしながら耳川の戦いについて書きます。